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ずっと避けてた映画を観た 聲の形

聲の形という映画をやっと観た。
昔この映画が、「いじめ」をテーマにした映画ということを知って拒絶反応が出た。

ぼくは「いじめ」という題材がとてもとても苦手だ。どんなに怖いホラー映画よりも、嫌な気持ちになるし、あまりにも煮え切らない気持ちが不快で仕方ない。だからこの映画も最初知ったときは、「こんなの絶対に観ない!」と思っていた。なんなら、「いじめっ子といじめられっ子が仲直り?そんな都合のいい話を誰が見るんだよ!」といったぐらいには拒絶していた。

しかし、そんなこんなで時が経って、改めてこの映画を目にしたとき「見てみようかな...」と思った。確かに楽しい映画じゃない。きっと嫌なシーンが沢山ある。でもこれを観たら何か変わりそう。そう思って観ることにした。


結論から言うと、観て良かった。
実際、嫌なシーンは沢山あった。何度も嫌な気持ちになったし、早く終わらないかなと思ったりもした。しかし、自分の中で心境の変化があった。

主人公であり、いじめっ子である石田将也。彼に報われてほしいという気持ちがどんどんと物語が進むにつれて芽生えていった。

序盤に将也くんとそのお母さんが朝食を食べるシーンがある。そこでお母さんは将也に「何で死のうと思ったの?」と質問をした後に、「死ぬのをやめるって言わなきゃコレ燃やすわよ!」と将也が死のうとする前に身の回りのものを全て売って手に入れた170万円に火をつけようと脅すのだ。

このシーンが僕の中ですごく印象に残っている。実際お母さんは将也の自殺の動機は察しがついてたと思う。小学生の頃に硝子ちゃんをいじめ、その後将也自身がいじめられるようになり、もう生きている意味が見いだせなくなったからだと。

お母さんは辛かったと思う。自分の息子が誰かをいじめ、今度は誰かにいじめられたという何重にものしかかる責任と悲しさ。
この映画の主人公は将也だが、僕は翔也のお母さんにも同じぐらい感情移入していた。いじめの原因は子どもにあるにしても、その責任を負うのはその親なのだから。自分の目が届かないところで、そんなことが起こってたと思えばショックを隠せないだろうし、硝子ちゃんのご家族の元に補聴器の弁償代と謝罪を申し入れたところで、本人達がそれを快く受け入れてくれるはずもない。シングルマザーな上に仕事で忙しく、将也と触れ合う時間も少なかったからこそ、そのいじめに気付いたときには手遅れになっていたのかもしれない。

因果応報と言えばそれまでだし、将也が引き金となって、こういった関係性になってしまったことは事実だ。しかし、将也は過去と向き合い、取り戻そうとしていた。周りからは偽善者だの自己満足だのという言葉が飛んできても、それを否定せずしっかり受け止めていたし、手話を学んだり、硝子ちゃんと積極的に連絡をかけていた。

将也は何度も「ごめんなさい」という言葉を使った。
この言葉はいじめられた側からすれば、相手が罪悪感から逃れたいだけだろという風に聞こえるとも思う。僕がいじめられっ子だったら、そんな言葉をかけられても、快く返事を出来る気がしない。縁を切って全く違う人生を歩むのがお互いの為にもいいだろうと思ってしまう。

将也の行動は、硝子ちゃんの心が少しでも癒えていく為に起こしたものだと思うし、過去を蔑ろにして、また同じような過ちを犯す人間に比べたらよっぽどマシだ。確かにやったことは到底許されることじゃないし、その事実は消えない。でもその重すぎる過去にしっかり向き合い続けた彼の姿は、自然と僕を感情移入させた。

この作品に出てくるキャラクターはみんなモノの捉え方が異なっている。植野ちゃんもずっと硝子さんを敵視して暴力をふるっていたけれど、あの裏には硝子ちゃんと出会ったことで昔の関係性が途切れてしまったことや、障害者であることを自分の都合の良いように解釈し、正当化したことから生まれた行為だったと思う。川井ちゃんも、自分自身は悪くないと正当化していたけれど、ああする以外に目の前の物事を受け入れる術がなかったのだと思う。

硝子ちゃんも先天的な聴覚障害を持っているからこそ、コミュニケーションが拙くなってしまうのはしょうがない。それに加えて本人の内向的で、自分から発信しないその性格が、正反対の植野ちゃんから反感を食らってしまうのも分かる気もする。硝子ちゃんは決して悪いことはしていない。決して責められるようなことは1つもしてはいない。ただ、小学生という精神的にまだ発展途上な状態と、学校という絶対的な環境下では、彼女が受け入れられること自体難しかったことなのかなと思う。それでも、彼女は将也を受け入れようとしていたし、誰かを反発したことは殆どない。彼女の寛大な優しさがあって、将也は変われたのだと思う。

表面的に見れば島田も植野も川井も、誰ひとりとして何処かしらかひねくれてて難しい人間に見るけれど、実際の内面にはひとりひとりの複雑で、そうならざる負えなかったマインドがあると思う。

僕はこの作品に出てくる人々をはなから否定せずに、自分なりに解釈していきたい。そうでもしないとあまりにも苦痛でしかない作品だからだ。でも色んな考察サイトを見てみると、ひとりひとりの心情の内が分かっていく感覚がある。原作も読んでみるつもりだ。きっとこの映画と同じように気持ちいい気分にはならないだろうが、それでも何かしらか人の心を理解することは出来るかもしれない。

何かを否定することは簡単だし、すごく楽だ。でも同時に苦しさは残ったままだ。
何かを受け入れることはすごく難しいし、苦しい。でもそれが出来れば、ずっと楽になる。


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