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音楽の国の冒険④(全7回)

多民族都市ウィーン

 オーストリアは長らく北イタリア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキア、クロアチアなどを版図に含む多民族国家であり、それゆえ首都ウィーンは多くの民族が共存する国際都市であった。現在オーストリアに居住する非ドイツ語系住民は(オーストリアの公用語はドイツ語)1%に過ぎないが、ウィーンを歩いているだけでも様々な民族文化の影響を感じ取ることができる。
 例えば、この日の昼食には、ウィーン名物のシュニッツェルを食べた。

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 トンカツの原型となったともされる料理だが、豚肉ではなく牛肉を使っているところと、揚げる前に肉を叩いて薄く引き伸ばしている点が特徴だ。硬く、脂身の少ない肉は、日本のトンカツに慣れた自分にはやや物足りなく感じる。
 ウィーン名物とは言ったものの、この料理はウィーンで発明されたものではなく、イタリアのミラノ風カツレツが原型となっているらしい。元々中世イタリアでは料理に金箔をのせて食べるということが行われていたが、16世紀に禁止されてしまった。そこで、見た目だけでも黄金色にしようと、衣をつけて揚げるということが考え出されたのが始まりだそうだ。19世紀になり、『ラデツキー行進曲』で知られるラデツキー将軍がイタリア遠征に赴いた際、これをウィーンに持ち帰ったのだという。
 ミラノやヴェネツィア、ジェノヴァなど北イタリアの諸都市はかつてオーストリアの支配を受けており、イタリア文化はシュニッツェルの他にも、モーツァルトの項で触れたようにウィーンの音楽文化の基層となってきた。
 1848年、世界中で民族運動が勃興する中でこれら北イタリアの都市でも独立運動が起こったが、それを鎮圧したのがラデツキー将軍であり、この出来事を記念して作曲されたのがヨハン=シュトラウス1世の代表曲「ラデツキー行進曲」である。ピンとこない人は下のリンク先の動画を再生してみてほしい。音楽に疎い人でも、必ず聴いたことがあるはずだ。ウィーンフィルのニューイヤーコンサートではこの曲が演奏されるのが決まり事になっており、ウィーン市民にとっては新年を象徴する曲である。

 19世紀半ばの民族運動の勃興は一つの「歴史の流れ」であり、それを鎮圧したラデツキー将軍の軍事行動は、いわば新しい変化を押しつぶそうとする「保守的」「反動的」な行為であったとも評価できる。そして、それを称えて、楽曲まで捧げた作曲家の⾏為も。⼀⽅、彼の息⼦で、やはり⾳楽家のヨハン=シュトラウス2世は、逆にこうした⺠族運動に共感を示し、「⾰命⾏進曲」「学⽣⾏進曲」「⾃由の歌」といった曲を作曲している。政治思想的には真逆の価値観をもっていたこの親⼦がいずれもウィーンを代表する作曲家と評価されていることは、芸術への評価が政治思想から⾃由であることを象徴しているといえるだろう。
 その後の民族運動の中で北イタリアの諸都市は次々と独立を達成していったが、扱いが難しかったのがアルプス山脈のほとり、南チロル地方であった。この地は第一次世界大戦後にイタリア領となったもののドイツ系住民が多数派である。現在は改善されているものの、かつてはドイツ系住民に対するイタリア語使用の強制がなされたこともあった。歴史の中で常に多数派として、支配する側として振る舞ってきたオーストリアの人々でも、時と場所が変われば少数者として迫害される側にまわってしまう。

 リンクを反時計回りに歩くと、ウィーン大学がある。14世紀に設立された名門で、ツヴィングリやメンデル、ツヴァイク、シュレディンガー、ハイエク、ボルツマン、ドップラー、ブルックナー、マーラーなどの数々の著名人を輩出しており、前庭には彼らの胸像がずらっと並んでいる。
 ウィーン大学の卒業生で最も興味深い人物はジークムント=フロイトだろう。精神分析学の創始者として知られる心理学者で、彼が「無意識」の概念を提唱したことは20世紀最大の発明の一つとも評価される。
 彼はボヘミア(チェコ)出身のユダヤ人であった。オーストリアの文化人には、音楽家のマーラーやシェーンベルク、伝記作家のツヴァイク、哲学者のフッサールやウィトゲンシュタインなど、ユダヤ民族を出自とするものが数多い。先述のヨハン=シュトラウス親⼦もハンガリー系ユダヤ⼈を出⾃としている。
 一方でフロイトの出身地であるチェコといえば、常にハプスブルク家の悩みの種となってきた土地である。次回のチェコ旅行記で詳述することになると思うが、17世紀ヨーロッパ最大の戦争である三十年戦争は、ハプスブルク家のカトリック強制策に対して、この地域が反乱を起こしたことがきっかけで始まったし、また民族主義が広まった19世紀には、1848年におけるスラヴ民族会議の開催を筆頭に、たびたび民族運動を起こしてきた。
 しかし、いざ第一次世界大戦後にこの地域がチェコスロヴァキアとして独立を達成すると、それまでチェコとオーストリアとの国境を季節に応じて行き来していたチェコ系労働者たちの多くは、そのままウィーンに留まることを選択した。こうした経緯より、チェコ系住民は現在のウィーンにおける最大のマイノリティになっている。

 夕食にはグラーシュを食べた。

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 ハンガリーの代表的料理で、簡単に言ってしまえばパプリカでつくるシチューのような料理だ。ハンガリーにはグラーシュの他にも、パプリカーシュ=チキン(パプリカチキン)など、パプリカを材料にした料理が多い。小麦粉の塊を沸騰したお湯に落として作る、パスタのなりそこないのようなダンプリングを付け合わせにして食べるのが特徴である。
 味はと言えば、基本的にはシチューと同じレシピなので、不味くなろうはずもない。オーストリアで食べた料理の中では、唯一といってよい、掛け値なしに美味しいと言える料理だった。ハンガリーのソウルフードとも言ってよい料理ではあるが、オーストリアや南ドイツの代表的料理とも目されており、ガイドブックでも当たり前のようにオーストリアの料理として紹介されている。

 ハンガリー人は常にオーストリア最大のマイノリティであり、歴史の中で強い存在感を放ってきた。
 1848年、ウィーン体制と呼ばれる保守反動体制が瓦解するきっかけとなった三月革命の中心勢力となったのも彼らハンガリー人であった。この革命は一時は成功し、ハンガリー人は自治を獲得することに成功したのだが、彼らの思いを挫いたのは同じマイノリティであるクロアチア人であった。
 ハンガリー人は確かにオーストリア帝国の中では少数民族で、ドイツ民族の抑圧を受けていた人々だったが、その一方で当時はハンガリーの一部であったクロアチアの住人にとっては、彼らハンガリー人こそが抑圧的な支配者であった。それゆえオーストリア政府にけしかけられる形で、彼らは革命の鎮圧に協力することになったのである。“弱い者達が夕暮れさらに弱い者を叩く”……どこかで聴いた歌の通りの世界だ。
 この三月革命の顛末は、良知力氏の著書『青きドナウの乱痴気』に詳述されている。

 この書籍について特筆すべきことは、著者のガンとの闘病の中で書かれ、そして著者は完成の2週間後に逝去しているということである。以下、あとがきからの引用である。

実を言うと本書の執筆の過程と、私のガンという病いの過程が同時進行として存在していたのである……。民衆の暮しは、もちろん直接私たちが見たり聞いたりしたわけではない。だがそのうちのかなりの部分は、私たちの若いころのウィーンの暮しと二重写しになって、いま頭の中をかけめぐる。あとがきを書くにあたって、万感の想いは……グイと喉から呑みこんでしまおう。シュトラウスが聞こえないのが残念だ。

 つまりこの本は単なる三月革命の案内書ではなく、著者の研究者としての人生の集大成であり、彼の人生の全てを込めた最後のメッセージともなっているわけだ。それを知れば、襟を正して読書に向き合わざるを得ない。「遺作」を「最高傑作」にできる作家は少ない。そういう意味では、著者は物書きとしては幸福だったと言えるのかもしれない。教師としての私に向き合ったとき、私は人生最後にするであろう授業を、それにふさわしいものに出来るのだろうか、そんなことを考えさせられる。

 余談が過ぎた。ハンガリー人の話である。ハンガリー人は、オーストリア国内の少数民族の中では比較的恵まれた地位を享受してきた民族でもあった。
 面白いことに、オーストリア史における2人の有名な女性、エリーザベトと後述するマリア=テレジアはいずれもハンガリーの民族問題に強い関心を払ってきた。マリア=テレジアはプロイセンとの戦争を経験するにあたり、ハンガリー議会の協力を得ており、それ以来ハンガリーの人々に常に気を配ってきたし、エリーザベトにとってハンガリーはウィーンの宮廷よりもはるかに居心地のよい土地であった。乗馬を趣味とするエリーザベトにとって、元々はアジア系の遊牧民族を出自とするハンガリー人は同胞のように感じられたのだ。
 そんなエリーザベトの後押しもあってか、ハンガリー人は1867年、他の民族に先駆けて早くも自治を認められることになった。当時プロイセンを中心として、バラバラだったドイツ人国家を統一する運動が進められていたが、オーストリアはドイツ人国家であったにも関わらず、1866年の普墺戦争の敗北によって、この統一運動からつまはじきにされてしまう。それによりオーストリアは国内の統一すら保てなくなり、妥協策として、ハンガリーにも「支配する側」にも回ってもらうことになったのだ。すなわち、ハンガリーにもオーストリア政府と同等の自治権を持たせることで、オーストリアがチェコなどの民族運動を抑える一方で、ハンガリーはクロアチア人やスロベニア人、スロヴァキア人などの民族運動を抑えるという役割分担が成立した。オーストリア=ハンガリー二重帝国の誕生である。
 こうした経緯から、オーストリアが第一次世界大戦で敗戦した際には、ハンガリーはオーストリアと同等の責任を問われることになり、領土の大部分を喪失することになってしまった。

 地図をみると、ウィーンと、チェコの首都であるプラハ、ハンガリーの首都ブダペスト(それからスロヴァキアの首都ブラチスラヴァ)が互いにあまりにも近いことに驚く。オーストリア帝国の首都がウィーンだったと考えるよりは、この3都市を結ぶ三角形がこの帝国の中心であると見なした方が、帝国の実態を正しく把握できるのかもしれない。
 ところで、ウィーンのようにコスモポリタンな性格を持った都市は、前近代のヨーロッパにおいては意外と珍しい。そういう意味ではウィーンという都市は過去の遺産であるだけでなく、EUの理想を体現してきた都市であると見なすことができるかもしれない。その視点に立つならば、保守的な人物でありながらも決して異民族を差別せず、「ウィーリブス=ウーニティス(一致協力して)」をスローガンとしていたフランツ=ヨーゼフ帝は、やはりウィーンの「顔」にふさわしいのかもしれなかった。

美術史博物館と自然史博物館

 それにしても、ウィーンの美術館・博物館のなんと充実していることだろう。アルベルティーナー、古楽器博物館、武器博物館、エフェソス博物館、美術史博物館、応用美術博物館、ルードヴィヒ財団近代美術館、レオポルト美術館、ベルヴェデーレ宮殿……2日間でこれだけの美術館・博物館を訪問したので、最後には食傷気味になってしまうほどだ。
 その内容もあまりに充実している。「レオナルド=ダ=ヴィンチ」と署名された絵があまりに雑に飾られているので、最初は全てレプリカなのではないかと思ってしまったほどだ。特に美術史博物館のコレクションは素晴らしく、ラファエロの『草原の聖母』、ベラスケスの『青いドレスのマルガリータ王女』、ルーベンスの『メデゥーサの頭部』、フェルメールの『絵画芸術』、クラーナハの『ホロフェルネスの首を持つユディト』など、一度は見たことのある名画の目白押しだ。

 中でも充実しているのはオランダの画家ピーテル=ブリューゲルの作品で、『農民の踊り』や『子供の遊戯』『バベルの塔』『雪中の狩人』など、彼の重要な作品はほぼこの美術館に収められている。個人的には、私の好きなアルチンボルドの『夏』『冬』『火』『水』が見られたのが嬉しい。動植物を集め合わせて人間の顔のように仕立て上げた、アレだ。

 この中の作品の一つでも日本に来れば、それだけで特別展が開けてしまうだろう。しかも、日本では展示ケースで覆われているところ、ウィーンの美術館にはそんなものはなく、触ろうと思えば触れてしまう。日本では大層有難がられるであろう巨匠の作品たちが、あまりにも無造作に展示されている。なんとも羨ましいことだ。

 美術史博物館の向かい側にある自然史博物館もまた素晴らしい。

 女帝マリア=テレジアの夫フランツ1世のコレクションがもとになっており、ありとあらゆる種の動物の剥製や、鉱物などが展示されている。最大の目玉は、先史時代の地母神像の典型例とされるヴァレンドルフのヴィーナスだ。
 私はこの自然史博物館でも、やはり日本と欧米の文化格差を痛感させられる思いをしたが、後にこの認識は間違っていたことを知った。何と言っても私はこの時点で、まだ東京上野の科学博物館を訪問していなかったのだ。ウィーンの自然史博物館もそれは素晴らしいものだったが、上野の科学博物館は展示の質、量、そして展示方法の工夫いずれをとっても自然史博物館に引けをとらない、いや、それを大きく凌駕するものだった。世界的に見ても有数の科学博物館なのではないだろうか。読者の中にまだ訪問したことのない人がいれば、是非訪ねてみてほしい。

 1日の終わりに、ウィーン初の市立公園であるシュタットパルクを訪問する。「美しく青きドナウ」の作曲者ヨハン=シュトラウス2世の黄金の像があることで有名な公園で、ガイドブックでは「のんびり散策するのによい」と紹介されている。

 が、実際訪ねてみると、そんな落ち着いた雰囲気ではなく大勢の人で混雑していた。

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 今日はイベントか何かだろうか? と訝しんでいたが、しばらくしてその原因がわかった。ポケモンGOである。当時はポケモンGOがリリースされてから間もない時期だった。私もここウィーンでゴーストやルージュラ、ピジョットを捕まえ、現在も大切に育てている。公園に集まる人々は皆が皆、携帯電話とにらめっこしてレアポケモンを探し回っていたのである。

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 しかも彼らポケモントレーナーたちのマナーがすこぶる悪い。ウィーン随一の散策地であるはずのシュタットパルクは、彼らのばら撒くゴミに溢れていたのである。こいつは面白いと、私は捨てられているゴミをパシャパシャと写真に撮りまくった。公園にいたウィーン市民の何人かは、明らかな外国人観光客が自分たちのマナー違反を写真に撮っている様子をみて、自ら恥じ入ったことだろう。

音楽の国の冒険⑤へ(5月7日 9:00公開)

by 世界史☆おにいさん(仮)

Header Photo by Park Gunwoo on Unsplash

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