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配慮ってどうなんでしょう。女王の教室に学ぶ指導法③

当時はあまりなかった言葉ですけども

放送された当時は2005年。その時は「インクルーシブ」「合理的配慮」などの言葉はまだ流行っていなかったかもしれない。
現在、教育で「多様性の尊重」「差別をなくそう」「配慮をしよう」とか、そういった言葉がかなり出回っているように感じる。
「学習に困難を抱えている子には配慮を」と教師が考え、一人ひとりに寄り添った指導が行われているはずだ。

保護者の考えも変わったような。

保護者の考え方も変わってきているように感じる。
「うちの子をビシバシ鍛えてください」「厳しく叱責してください」という親ももちろんいるが、少しずつ「のびのびと~」「子どもがやりたいようにやらせて」などという言葉も聞こえるようになってきたと思う

これは、やはり子どもの個性を尊重するという考え方が広まったり、発達障害の認知度が高まったりしているからかもしれない。

中には、「できないこと」「苦手なこと」をしかたない・あきらめようとなってしまい、無気力になる児童・保護者もいる。

しかし、決してこれは「自由にさせる」ということではない。
子どもを自由にさせたら、好きなことを好きなだけやっておわりだ。
もちろん、好きなことが学習につながることはあるが。
それでも、親や教師は、子どもにきちんと教育をしなくてはならない。

大きく分けると2種類の考え方

人間には一人ひとり苦手なことがあると思う。その苦手なこと(できないこと)は、単純に努力不足である場合と、努力してもなかなか克服できない発達障害にあたるものがある。

前者の場合、鍛えていけば少しずつできるようになっていく。「やればできる」という言葉(賛否はありますが)もあるくらいだ。だから、教師や親が根気強く引っ張っていくことが極めて大切だ。これが厳しさだ。
子どもは楽をしようとするものだ。子どもはゲームをしたくなるものだ。それは仕方がない。自分の将来のためとか、楽しいからもっと学びたい、と思ってくれればよいが、その気にされるのはなかなか難しい。この考えは理想論かもしれない。とにかく、教師や親の役目は、子どもを成長させることだ。これが教育だと思う。

後者の場合はどうだろうか。発達障害のグレーゾーンとなると、いくら努力してもできないということがある。その子のもっている個性であるからだ。やってもやっても、何度書いても漢字が覚えられない。計算練習を繰り返しやっているものの、一桁の足し算より先に進めない。とかね。何度もそのような児童を見てきた。

さて、ここで気を付けなければいけないことがあると思う。
一つは、子どもを発達障害と決めつけてはいないだろうか、ということだ。
教師も、経験によって判断ができるようになってくると思う。「この子は持っているな…」とか、「LD傾向だな…」とか。職員室で聞こえてくることもある。まあ精神科医ではないんですけどね。「おおよそ」の判断。

大事なのは、判断したなら、何をしていくかを考えることだ。
やってもやってもできないなら、別の方法で努力することの大切さを指導する。
学習以外でも同じだ。
忘れ物が多いのなら、「忘れ物が多いのでしかたない」と考えるのではない。
忘れ物を減らす方法を見つけ、忘れ物を少なくできるように努力し続けることを教えるのだ。

つまり、何かできないことがあったり、苦手なことがあったら、人に助けを求めることはよいが、努力を怠ってはいけないということだ。

やっぱり世の中は甘くない。

ドラマでも伝えられているように、残念ながら、特権階級が得をする社会。格差社会である。頭の悪い人は損をする。
だからこそ、できないことは、努力をするのみだ。
努力を怠っているのなら、教師や親が応援する。指導する。
子どもの将来のために、厳しくすることは必要だ。
それが、愛情であると考える。

では、「厳しさ」って何でしょう?

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