園は、園長の鏡であるということ
「保育園は、誰ものも?」
子どものもの?
保護者のもの?
保育者含むみんなのもの?
地域のもの?
誰のものでもない?
それとも園長のもの?
以前の私も含む、多くの人が「考えたことがない」というのが正直なところ。そもそも「もの」ということに抵抗感を持つ人も少なくないでしょう。
しかしながら、あえて「物体」や「事業」として捉え決定権の所在を明らかにするとしたら「園長のもの」であることは確かだと、今の私は思っています。
保育士に将来的な可能性があっても、園長が今の保育を維持することだけを望んでいれば、保育士は労働者としての側面しか持つことができず、給与や処遇や子どもとの思い出だけを、自分の働くことの価値として持つようになります。
「朗らかであればいい」なんて中高生でもあるまいし、やはり職業人としての専門性と自覚できる「成長」がないと、大人の場合は虚しさが募るか、不安から不満が増幅するか、もしくはただそこで歳をとるということになります。(歳を重ねる、と、歳をとるには、大差がありますね)
研究発表の指導をしていくと、保育士のスキルと視点が明らかになっていく様をみます。
これまで言葉にしてこなかった自分の保育を、文章に仕上げていく過程で、最初は拙くとも「なぜこの研究テーマにしたのか」という部分を突き詰めていくと、必ず自分の答えが出てきます。
自分の保育の強制力に気がついた、50代の保育士。(N保育園)
散歩ではなく「移動」、遊びではなく「トレーニング」だったとの反省から、計画を見直し、行動を変えたことで子どもの体力だけでなく知的・精神的な豊かさが生まれた。(N保育園)
こどもの表現といいながら、製作技術の習得がメインであることを発見した保育士と、その発見から保育を見直し、実践を変えてみた年長担任。(Sこども園)
継続的な研究を通して、チームだけでなく保育士個人の視点と前向きに捉える力が育ち「もっとできることがある」と、保育士が主体的に園の環境を変えていくことになった。(A保育園)
保育士の「こうなってほしい」よりも、子どもの「やりたい」という欲求にこどもの発達段階が存在していたことを見つけた30代の乳児担当保育士。(M保育園)
直線的だった「実践事例」を深掘りしてみると、そこには何年もかけて培った「園の文化」と「保育の重なり」があることが見えてきた研究チーム。(N保育園)
園独自の取り組みだと認識してはいたが、その取り組みを通して大人の「個人・チーム育つ仕組みができている」ことが明確になった園。(H保育園)
市町村の「保育士スキルアップ」の取り組みから、改めて園と保護者の連携を、長期的な視点で探ってみると、成果がしっかりと「保育士」に現れていたこと。(K保育園)
現場の保育士だけではかなわない、他園との交流や教育委員会との連携を実現させるために園全体で動いた事例。(Y保育園)
どの園も、園長の人柄と「私の思ったことをしっかりと伝え、保育者の視点が伸びても大丈夫」という、園への信頼があって、研究指導は成り立ってきました。
保育士の成長は、それを受け止め、園の中で活かしていくという園長の覚悟がなければ、異質で邪魔なものもしくは"任せきり"を作ることになるからです。
将来的には、自分で生きていく。という前提は子育ての話であり、保育がチームで、組織で、そして「雇用関係」である以上、保育士本人の努力だけでは早いところで頭打ちになります。
きっとこの先も伸びるであろう保育者、とっくに頭打ちが来て日々をこなすだけになっている保育者、行き着くところは処遇だけになっている保育者。
いろいろな人たちに出会ってきましたが、どんな人でも「気がついて伸びていく」ことは可能であることもまた、実感しています。
それもこれも、園長次第。
ただの情報を「知識」や「知恵」と勘違いせず、そして「今の状態を晒すことが怖い」と恐れることなく、園を成長させることの決断をしてほしいです。
ちなみに、気合だけではダメです。
しっかりと「時間」と「お金」の通しと、第三者の「見通し」があって初めて、変わっていく実感を、園長も持つことができます。
今までのやり方では、今まで以上になることはありません。
だから園長は園の鏡です。
2023.10.07 がじゅまる 学習塾
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