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先生、わたしの靴はどこですか|詩「うしなったつま先」

   うしなったつま先
                 文月悠光

靴がない!
私は嬉々となって走り出した。
(先生、わたしの靴はどこですか)
ひそやかに唱える。
唱えたそばから
思わず笑みをこぼしてしまったので、
慌てて口を結ぶと
カラカラと赤いランドセルが鳴いた。
階段をひといきで駆けのぼり、校長室の角を曲がる。――行方知れずの運動靴の中で、光のつぼみがふくらんでいる。つま先に咲くのを待ちわびている――。コーヒーの湯気をたどった先に、新米教師の消えそうな肩を見つけた。新米教師は生徒を疑わない。ただ、「朝はあったのでしょう?」とつぶやくように問いかける。〝無垢〟な生徒を抱えた彼女は、教師の装いにすがりつくほかないのだ。やがて、荒れた頬があらゆる使命にほだされ、紅潮しはじめる。祈りを捧げるかのような一瞬のまどろみに酔う。私はそんな彼女を前にうつむいた、口元に含みをしのばせたまま。そのとき、大きく手を振って、新米教師は職員室を飛び出した。薄い唇を湿らせなどするその横顔。すれ違いざま、空を斬る。

私が玄関にたどりついたとき
彼女は隣のクラスの棚から
すでに水色の運動靴を見つけ出していた。
落胆を覚えながらも、
私は運動靴を受け取ろうと手をのばす。
だが、
「つぶれてるね、かかと」
教師は咎めるように言って、運動靴をさかさにした。
「画鋲なんて入ってないよね」
白い指から靴はだらりとつま先を垂れ、
ニ、三度大きく横に揺すられる。
音が光って床に散らばるはずのあたりに
彼女のまなざしがゆらめいた。
光が、枯れていく。

教科書を隙間なく詰めた通学鞄を背負い、
すりきれた革靴で、夕日を踏み分ける。
あの頃の
小さなつま先を失った私は
人影を踏んではならない。
けれども、ときには
つぶしていた靴のかかとを
こっそりと立ち上がらせてみる。
かかとに指を差し入れた私を
かろやかに
赤いランドセルは追いぬいていく。

ーー詩集『適切な世界の適切ならざる私』(ちくま文庫)より
https://www.amazon.co.jp/dp/4480437096

適切な世界の_書影_帯付

解説:町屋良平
帯 推薦コメント:綿矢りさ
装画:カシワイ
装丁:名久井直子

「だから/おりてこいよ、ことば。」「されば、私は学校帰りに/月までとばなくてはならない。」―学校と自室の往復を、まるで世界の淵を歩くようなスリリングな冒険として掴みとってみせた当時十代の詩人のパンチラインの数々は「現代詩」を現代の詩としてみずみずしく再生させた。中原中也賞と丸山豊記念現代詩賞に輝く傑作詩集が待望の文庫化!

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発売日 : 2020/11/12
ISBN-13 : 978-4480437099
文庫 : 158ページ
出版社 : 筑摩書房 (2020/11/12)

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▶︎目次(※一部。文庫版あとがき、町屋良平さんの解説が入ります)

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