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【小説】椅子

咄嗟に君の椅子を引いてみたらどうなるだろうと、ずっと考えていた。

君とは3年間クラスが同じだった。何度も何度も席替えをして目まぐるしく私たちは大人になったが
記憶の中の君はいつも、前の席で居眠りをしていた。

君は授業中に寝るのが上手かった。起きているように寝ることが出来た。普段の字は汚いが、硬筆コンクールになると必ず賞を取った。
世の中にはこういう時にこう振る舞うのが一番格好が付く、という決まりがあって、君はそれを地でなぞっていた。他人の目が最も気になるちぐはぐな時期に、適切に立ち回れるということがどれだけ恵まれているか知らない君は、
右足を軸にして、いつも少しだけ傾いていた。

真っ直ぐ立つことすら目立つ、歪な斜塔のような校舎で、君だけが地軸のように見えた。

手を挙げるのも、笑うのも、走るのも、名前を呼ぶのにも、私たちは間違えないように息を潜めタイミングを窺っていた。教室の窓は皆が吐く二酸化炭素で曇って、長引く鈍痛のように息苦しかった。お手本通りに線を引いてもお手本のように綺麗になれなかった。

自分の全部が間違っているような気がしていた。右手と左足を出し、次に左手と右足を出して進む、その動作にすら自信が持てなかった。何が起こっても、君の方が間違いだよと言われる錯覚に陥って、空白を縫うように、私にしかないものを必死に探してはまた自信を失っていた。

君が席を立った時、咄嗟に君の椅子をひいてみたい。

時折、考えるよりも前にそんな衝動が頭を過ぎることがあった。
何の間違いも綻びもない君の地軸がぐらついて、絵のような表面が剥がれて、不格好な君のむき出しの感情が見えたら。君が戸惑い、慌てて、情けないような顔をして取り繕って笑い、痛みに眼を潤ませたら。或いは怒りに我を忘れて、ぎこちない表情を見せたなら。

ごめん。私の乾いた声が教室の床に落ちて、下敷きのように張り付く。

行きたくない学校に足を運んでいる。足取りから全てが間違っているのだ。私皆どうにかなってしまえばいいって思っている。でも笑っている。教室が嘘の臭いがしているような気がする。
体育祭や身体測定の時のがらんどうの教室、ふと荷物を取りに帰った時、別に自分がいなくてもここは回っていくんだって気付いてしまう。

嘘をつかなきゃ過ごしていけない世界で、全部が嘘の色をしているような気がする。自分の気持ちが一瞬本物になるような強い痛覚を探している。次第に自分自身に攻撃的になっていることをよく知っている。そんな自分から隠すように、他者を遠ざけている。だから、暴力的な寂しさが襲ってくる。その事を内面に隠している。

ドラマとは違う。きっと大した話はしないまま、ぼうっと眺めたまま、卒業して忘れていく。
漠然とした黒い心も、それに反して特別に意識してしまう理由も知らないまま。居るのか居たのか分からない、ただどこかおかしかった歪んだ教室の中で、私は私のための地軸を立てた。

君からは私を嘲笑う権利が真っ当にあって、どこまでも君が正しい気がした。私の全部は間違っていた。ヤママユガを潰すことでしか、私は一瞬でも君と目を合わせられなかった。
嫌いだった。全部が嫌いで、それとはまた違う色をして君が嫌いだった。



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