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義務とエンターテインメントと職

YouTuberの卯月輝(うづき こう、敬称略)の言葉で、いつからかいだいていた何かしらの思いが瓦解したので筆を執りました。ヘッダ写真をお借りしています。

瓦解というには大げさかもしれない。瓦解までは行ってないかもしれないという意味合いと、卯月自身の言葉の真意にそこまで寄り添えているかわからないからみたいな意味合いが「大げさかもしれない」という文に含まれています。以下の説明もそのような空気感で進められます。

職的な業に対して自分をどう向き合わせるのかについて

それは卯月のこの言葉です。

耳が慣れてしまうということは怖いものであり、ぼくはもう多分、社交辞令としての「仕事+お疲れ様」という文面に対して発話であれ字であれ問わずに受け入れてしまっているところがあるという自覚がある。人の言葉尻にいちいち立ち止まってたら単純に自分のリソースを失うからもうええワ、みたいなことをいつしか経験則で学び取ってしまったのかもしれない。

多分みんな言いますよね、例えば定時外の金曜日にレクリエーションが予定されていたとする、別にわかりやすく飲み会でも何でも良いんですが、その場合定時の18:00を過ぎた折り合いをみて幹事からリマインドメールが回ってくることでしょう。

「お仕事お疲れさまです、本日の飲み会に参加される方は~~~」的なご案内が、です。

しかしながら卯月は中学生(中学生という説明にはいささかの広い意味がある)であり、「仕事」という単語に対する職業感をそこまで求めていない「はずだった」節があるように思えました。

それは

・まさにいま卯月が収まっているYouTuberという立場が、
・重ねて、まさにいま仕事をおこなう場であるはずだから

という推測と、

・もともと本来ならYouTuberは副業といいますか、「業=仕事」つまり副業にも満たない副業以下の概念であったかもしれないし、
・なんならもし違う未来があったのであれば、YouTuberこそ続けていたかもしれないものの、今のような「職的な業」までには至っていなかったかも

という仮定により浮かび上がる仮説です。

上記のめちゃくちゃ回りくどい説明を、暴力的に端的にすると

「なんだか知らないけど、思ったよりも『好きなこと』で職的な業がサイクルできてしまっているのではないだらふか」

然とした感情で「仕事」という価値観を見据えているとこうなるんじゃないだろうか?とぼくは感じた。

「好き」が職で業になるとは

好きなことで業が回ってしまうのであればそれはちょっと「仕事」と呼びづらい感があるんじゃないでしょうか。それは割と自然なことであるように思える。

と言ってしまうと、じゃあ「お仕事+お疲れ様」というフレーズを脳死で受け入れられる層、違和感なく受け入れられる層とは、現在の立ち位置に「好きではなく」収まっているのか?と問いかけられるかもしれません……が、ある面ではそうだと言えてしまうのではないでしょうか。

「仕事」という単語にはそう思わせる「義務感」がつきまとう。ぼくはあまり記憶に残っているかどうかわかりませんし、過去に卯月がそのような体験記憶を話しているか定かではありませんが、卯月のこの言葉に共鳴したぼくは過去に「仕事」という単語によって自分の要求が押さえつけられてしまった、実現不可能になってしまった体験があるのかもしれない。況や卯月を哉(だから卯月もそうなんじゃないだろうか)。

つまり「ごめんね(子供の名前)、仕事だから……(週末に一緒に遊園地に行けない、等)」の会話が、未だ大脳新皮質が豊かに機能している時期の脳に刷り込まれてしまうレベルで繰り返された結果、「仕事」という単語に「『断り』を断行するための最適化ツール」的なイメージを持たざるを得なくなったまま、自分が「仕事」を持つに至るまでの立場になるまで育ってしまった――――――育ってしまったと言いますか、いやいやながらでも勝手に時は過ぎてしまい(残酷にも時は誰にも等しくその針を進めさせてしまう)、仕事という単語の持つイメージを新たな自分専用のイメージで塗り替える機会を失ったまま当座の機会を得てしまった。

義務感でエンターをテインメントできてたまるか

だから卯月の中では「お疲れさんした~」と例え軽くでも自分がしたことに対して「ねぎらい=相手からの心づくし、気遣い」を言われても、「わざわざ第三者から発生してもらうタイプのものではないんだ」、と仕事に対していだいているのかもしれないし、共鳴したぼくも思っているのかもしれない、と思いました。

「お疲れって言ってもらうのはありがたいんだけど、その……好きでやっているんで疲れてもその……自己責任って言いますか……いや……ねぎらってもらうもんじゃないんスよ、好きでやって疲れたら自業自得でしょ……」みたいな感覚といえばいいでしょうか。

ぼくが卯月ぐらい好きなことができているかどうかについてはいまいち自信が持てないため、その尺度を一概に同じと断じることは危険かもしれませんが、感情移入して想像するなら上記のような想いだと言えるでしょうか、「お仕事+お疲れ様」というお決まりのフレーズに対しては……

あるいは、「義務感で片付けるような心持ち」でみんなが仕事と称する行為に当たることを忌避している。義務感で人を楽しまれせるなんて無理だろ、的な考え方です。YouTuberとは人を楽しませるエンターテインメントの成分を含んでいる。

卯月は巫山戯てかもしれないが、「エンタメ経済圏を加速させる」という自分がバックアップを受けている企業のフレーズをデビュー当時の2018年から繰り返していた。別にぼくは、卯月が自分のチャンネルで発信していることを卯月がエンターテインメントだと思っていないとか、人を楽しませるためにはやっていないとか思ってはいないですが、たとえ巫山戯て言ったのだとしても、自分が口に出した言葉は嫌でも意識してしまう。言葉は勝手につきまとってくる。ましてエンターテインメントの側にいるのであれば。義務でエンターテインメントやるって何だよ?と。じゃあ義務じゃないじゃん?と。

じゃあ俺がしていることは仕事じゃないんじゃないの?と。

それが冒頭の「頑張ろうと思わずに頑張る」「仕事と思わずに仕事」の意味なような気がする。自然にわきあがる「俺が思う面白いこと」を楽しんでもらうんじゃなければエンターテインメントではないとすら言えるんじゃないか?というものです。

大人がよく言う

「明日仕事だ~~」
「(遊びの約束を受けて)ごめんその日仕事だから無理だ~~;;」

「明日エンターテインメントを人に届ける行為だ~~」
「(遊びの約束を受けて)ごめんその日不特定多数の人を楽しませる日だから無理だ~~;;」

とは置き換えられない……気がする。

でもそこを戦略的に過去の通例とかに従って仕掛けるエンターテインメントだって、それこそ同業界にはいくらでもある気はします。それが向いてる人もきっといるのでしょう。どちらが良いとも悪いとも優劣とも言えない。

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