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kamiがどこにでも宿る

情熱大陸でいけてる回を見、自分のお考えが正しいかどうかはほっておいて、「そういう考え方もある」の自信が持てたので書いておる。ヘッダ画像は説明に使うのであり、TBSの著作権を侵害する目的はない。

この回とは奇しくも芸を術る人の回であり、名前を西野達という。ファンキーな人だった。気難しいところは内面にあるのだろうが(なきゃこのようないろいろができないだろう)、いくらテレビであることを意識したと見ても、仮にブランディングでそうしているのだとしても色々と以外に見えてしまう。

以前からぼくが言っていた、何らかの芸=ARTとは造った側の押し付けではない、見る側が自分で好きなように受け取るべき(好きか嫌いかでいい)、だけど何らか思わせられなければ何の価値もない、それはこれまでのなにかと同質化したなにかでしかないだろうから、という思いを拡張させてくれる考え方を西野達は持っていた。

つまり上記以外のものを造っちまったらそれは単なるコモディティでしかないのだろう。芸とは常に唯一無二なのだ……

西野は町のひん曲がった配管を見てもそのいびつさが面白いと思う、街灯が実は変な形してて、夜に雨でも降ったらなにか異形生物が泣いているみたいにさえ見えないかと考える。つまりその先に何らか展開させるとしたら、その街頭を山程集めてきて、一斉に水がぶっかかるような機械周りを揃えて、すべての街灯が泣いているようなインスタレーションを創るんじゃないだろうかという予想ができた。それが面白いかどうかは別にして。だってぼくが考えた展開に過ぎないから。

そんな中でぼくが西野の教えによって見出したのがヘッダ画像にしたこれだ。

西野は渋谷の銅像を家の中にいれてやるという温かみのあるゲリラARTみたいなものを思いつき、その搬入作業を見守っていた。そのときに当該場所に西野の制作物を届けにきたトラックをTBSのカメラが捉えるために写した光景がこれである。

つまりこれは渋谷の町なわけです。あの10月末は馬鹿騒ぎする会場じゃねえととうとう締め出しをしたでおなじみの渋谷だ。

渋谷のこれだが……一見なんだかわからなくないだろうか?このように字を固め初めて取り急ぎ結論を書いてやるか的な気持ちになったぼくでさえ、未だにこのおぞましい「立て看板に異様な数の紙が貼り付けられたもの」がなぜここにあるのか、なぜ誰も撤去しないのか、つまりはこれの存在を良しとしているのかがわからない。

でもこれが渋谷の光景なわけです。ぼくは渋谷なんていかないからこれを異様に思えてしまった。これをそのままぶっ抜いてきて、そこらへんの近代美術館にでも飾ったら数十人がひとまず足を止めるんじゃないのか。それぐらいこの光景って異常なわけです。少なくともぼくには。

西野が同時に言っていたのが批判がない芸も芸としての意味がないと。つまりどちらかに全振りしているような芸なのでなければ置かれる意味もないのだろう。

有限である人様の自遊空間を侵害しておいてなにかを置くのであれば、それぐらいの衝撃をもたらさねばならないのだろう。「これはだめだ」と思えるぐらいのものでなければ。だめだと思えたのであれば、それは二度とやめようという「将来に向けての指針」ができるじゃないですか。その「だめ然」とした芸がもたらしたわけです。その未来を。

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