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安全圏から他人をいじるしか能がない奴がエンターテインメントを名乗れる時代なのだとしたらぼくたちには何ができるのか

ぼくは鬼滅の刃(以下、おにめつ)を楽しく読んだ読者の1人だったと自負しています。

過去にもこのようにnoteに書いていた(今思い出しました)ため、上っ面の言葉ではないということがわかっていただければ幸いです。

またぼくは楽しい(興味深い、面白い、おにめつは楽しいとはいえないかもしれない)物語なりなんなりを見終わった後に、同じ思いを抱いているかも知れない人々を探し出して気持ちの共有を慶ぶというような動物的本能からくる行為みたいなことを多分あまりしません。

好きなものを好きだという精神は既に自分の中でロンギヌスの槍のように起立しているため、いまさら補強する意味が見いだせないのかも知れない。

「ぼくの好きなAさんがおにめつのこういうところを好きらしい。Aさんが思うその部分をぼくも尊重しなければならない、そこをぼくも好きにならなければならない」みたいな思想があったとして、そちらに頭が持ってかれてしまうことを恐れているのかも知れない。

仮にAさんが好きなその部分をぼくは壊滅的に嫌いだった場合、割と悲惨な感じになることが予想できます。直喩すればぼくは鬼舞辻無惨の露悪的な生き様すべてが気に入らないため、いわゆる敵キャラ格好いいみたいな層に肩入れすることが微塵もできません。

言い換えれば、作者さんの敵側描写はこの上ないほど成功しているということであり、その力量は推して知るべしです。架空のキャラクタをここまで憎悪しているファンを生み出せるケースって適当にやろうとしてやれるものではない。「はいはい、嫌ってほしいんでしょ」みたいに適当に露悪的なエピソードをまぶしたキャラクタを書けば簡単にできてしまいますが、その程度の物語にはそもそも注目しないはずであるため(おそらく現代の消費者は、賢さがあるかどうかは別としてそこまで寛容ではない)、魅力的な物語中で徹底的に嫌われるキャラクタを造るのは多分難しいことでしょう。

しかしながら、今や著名人でもあたりまえに語るコンテンツであるおにめつであるため、そのような意見もかなり目にします。もはやぼくが敵側を心底嫌っていることがおかしいのかも知れないと思えてしまいそうなほど。強く心を保っていなければいずれそうなってしまうかも知れない。

SNSや匿名掲示板では多分漫画の一部を切り取ったようなコラージュも蔓延していたことと思います。ただぼくはおにめつを読み終わってからそれらを見ても、そこまで強く印象に残った部分だとは思えなかった。どうしてそこを切り取ったのか。

天狗の面で判断の速さをどうのこうのみたいな部分も、主役の絶望的状況をより際立たせるために必要だなぁとストーリーに合致していたため自然に読んでしまったし、負けそうになった強者を敵側が勧誘するシーンをなにかアプリゲームか何かの説明に書き換えるような切り取りにもその必要性を感じれなかった。上記のように敵側に真逆の感情移入しかできないためでしょうか。

そんな憎むべき敵に、人間社会の文化を無理やりコラージュで話されるようなことをなさっても……と捉えてしまい、要領を得なかった。そもそもSNSとか掲示板では文を書かないでいきなりピクチュア・ファイルを貼り付けるような文面よりも一方的な意思疎通を図ろうとする向きが存在するため、理解しようとする行為自体が詮無いことなのかも知れない。

お読みくださりありがとうございました。

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