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映画ターミナルを遺作と呼ぶべきかどうか

ぼくがターミナルを観ようと思ったのはその原作となった実在の人が死んでしまったからです。ヘッダ画像をお借りしています。

映画ターミナルの原作となった人はイギリスにいるらしかった。そしてぼくはターミナルという映画がどのようなものかさっぱりわかっていなかった。

だから偏執的なまでに内容ばれを嫌うぼくがたっまたまニュースで上記について知ってしまったことについて、ぼくは激昂すべきなのかもしれない。しかしながら、もし原作が人間なのだとしたら追悼の意をこめて元の物語を(ややこしいな)観ようと思った。人が死んでしまったのであれば、その歩んできた道を観測することがその人が生きた意味のひとつになるだろう。


で、ぼくはまだ全部観終わったわけじゃありません。冒頭から理不尽さがものすごくて書きなぐっています。

まず何にしてもメリケン(アメリカ)という国の冷血さについて考えさせられる。というのもぼくがターミナルを観始めた瞬間にはもうハンクスに感情移入しており、その生き様を妨げる者すべてを敵と認識するためだ。

このことについては過去にもnoteで触れているので参照されたい(しなくてOK)。多分ぼくのアカウント検索で「鬼舞辻無惨」とか打ち込めば出てくると思います。敵を好きになる、みたいな感情が理解できない。

メリケンはとにかく法令にそぐわないものを国内に入れないことについてその生命を賭けているかのようだ。言葉が通じないクラコージャー帝国から来たハンクスに対して通訳も呼ばずに一方的にパスポートを取り上げる。

パスポートとは身分証明であり有価証券だ。発行元のクラコージャー帝国でもない、他国の入国管理管やその主任ごときが一方的に取り上げるなんて戦争を意味してもおかしくないだろう。皮肉なことに、ハンクスの代理戦争を起こすべきクラコージャー帝国はターミナルが始まった瞬間に滅亡してしまっているわけだが……

ハンクスが不幸になるための描写が凄まじい。一方的にターミナルの中にいるように命令される。それも拘束権がメリケン側にないらしいから。笑わせる。

メリケンの入国管理では不審者をコンビニの会計みたいな「段階」で表現するらしい。もっとも2003年頃の話だから今もそうかどうかは知らないしどっちだろうと関係ない。つまり現在入国処理をした人間の危険度が高そうかどうかを入国処理野郎の手元でHQに伝える手段があるのだ。

さらにハンクスはターミナル内のTVで自分の国がなくなったことを知る。言語が通じない国でなんとなく自分の国がなくなったと知るなんてそんな不幸なことがあるだろうか。

そして、親切心のかけらもない土壌に毛が生えた程度に寄越されたターミナル内で使えるクーポンも人波の風に飛ばされる。多分失ってしまうのだろう……それもハンクスの横にいる女が旅行バッグを締めれなくなったのを手伝って失うわけで、そもそもクーポンじゃなくて無料券渡すべきだろ?でもどうせ無くしちゃうならどっちでもえんか……みたいなことを視聴者は考えなければならない不幸ぶりだ。

そして

肝心なのは、ハンクスの演技ってメリケン民から見てどうなんだろう?ということ。

だって多分イランだのなんだのあたりをモチーフにした不審者扱いされている人間を、メリケン人であるハンクスが演じているわけです。だったらハンクスがメリケン人に見えたらまずいと思うんだけど、ぼくにはハンクスの片言英語がきちんとした英語に聞こえてしまう。

これはぼくが英語を母語としていないだけでハンクスはきちんと演技できているならいいなあと思った次第。感想はまた続きます。

結局は「アメリカってくそみたいな国だなあ」って感じで終わる映画だと今から予想できてしまう。その訃報とも合わせてですが。だから物語の内容ばれについて知ってしまってから見る行為について理解ができないんだけどなあ


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