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五音の物語「犯人探し1000里を走る」

雪外の物語

前回

https://note.com/fuuke/n/nb4dcb0051b2c

五音には友達がいた。それは僕のことだ。

名を雪外(ゆきはづ)という。そしてお前を殺す者の名だ。

友達とは、双方が認めあって友達となるものだ。片方が勝手に友達だと名乗るほどみじめなことはない。

だから僕が自分のことを五音にとっての友達であると自己開示することには抵抗がある。正確にいえば抵抗が在った。

僕は自分が何らかの責に"問われてもおかしくない"場に居合わせてしまうことが多く、何かしらの因果だと今でも思う。

強調したように、言い換えれば僕には何らの責もないはずなのだ。ただこれは僕の一方的な言い分をこうして伝えているに過ぎないため、僕が恐ろしいまでの責任逃れ人(びと)である可能性が大いにあるだろうことを僕は意識している。だが、僕がそう思うのならば僕には責などないのだ。

五音が僕のことを友達であると思ってくれているならそれは嬉しいし、何らをする上でもおずおずとした遠慮ばかりの僕が、ある他人をして友達であると言い張れるぐらいには僕らの間には信があるはずだ。

五音に出会った頃はそうではなかった。ぼくは五音の世間知らず(育ちがいいという意味ではなく、世界のことや社会のことを知らない)により信を乱された。

僕が五音を、まさか友達になるなどということを見越しての打算的な行動ではなく彼自身が何も知らない環境で怯えているだろうと高をくくり、何らかの手ほどきをしてやっても何の反応もしないことに業を煮やした。未来、僕と五音との間に信など築けぬだろうと予測した。

五音との不仲を原因にして責を問われた時は、僕は精を込めて自分の友好性を主張した。僕は五音が過ごしやすいように先手を打ってこのように彼にやりやすい下地を造ってやったのだ。

そして結果的に原因の追求が五音に向くように仕向けたが真実なので仕方がない。あとは貴様らが消去法で、僕ではなく五音に矛先を向けるべきなのだ。僕はこれを消極的犯人探しと呼んだ。

僕は戦争を好まなかった。しかしながらこのように"公然たる事実"を明るみにしてやり、その事実がどれほど誰かの心(しん)を掻き乱そうと知ったことではなかった。誰もが事実を受け入れるべきである。

消極的犯人探しとは責任逃れに似ているのだろうか。僕にはわからない。なぜなら僕はそうして五音と親しくしてしまったのだから。

五音はいま、僕のことをどう思っているだろう。

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