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歌詠みに与ふるルーシー

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのゲット・アップ・ルーシーという歌について思いを馳せています。ヘッダ画像をお借りしています。

ゲット・アップ・ルーシーという歌のルーシーはたぶん人間の少女であり、どちらかというと緩やかに失われそうな人間あるいは既に失われつつある人間だと考えられてしまう。

これにはゲット・アップ・ルーシーより以前にリリースされたシングルであるキャンディ・ハウスとかにおける麻薬の雰囲気が想起させてしまうみたいな背景がある(どれくらいのスプレー からにしたのか)。

でもキャンディ・ハウスが含まれたHigh Timeとゲット・アップ・ルーシーが収録されたチキン・ゾンビーズは両隣のリリースであはありながら別物だ。だから無理にネガティブなイメージを引きずる必要もないし、でもそっちのイメージに惹かれるリスナーは別に惹かれたままでも良いんじゃないだろうかと思う。

ぼくはあまりにも単純になってしまうのでHigh Timeとゲット・アップ・ルーシーを地続きで考えるのを避けようとした。でももともとTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの歌詞についてはあまり考えたくはないというのも前回述べたとおりで、いちいち考えなくても完結しているからこんな事するだけ野暮なんですよね。

それでも書こうと思ったのはこのニュースを観たからで、前回はそれに触れずに終わってしまったため今回はこちらについて触れます。

ニュースを観るとオバマもルーシーに想いを馳せていることがわかる。でもオバマはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTが解散してから例の職業に就任した人だし、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTが欧州ツアーを頻繁に開いていたことを勘案したとて、オバマがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのリスナーであることは考えにくい。

だからこそ逆に、それぞれ違う価値観でルーシーを観ているとも言える。かつて為政者の上層にいたオバマ、かつてジャパニーズロックの頂点にいたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTという視点が得られる。

ルーシーがそこで何を観たのか、ルーシーが空で何を観たのかという話題について解明しようとするのは余計野暮だと思うけど、ルーシーが既に死んでしまっているのだとすればかつてそこにもいたし、いずれ空にも佇むのだろうと予測できなくもないだろう。

どこにいようがもう居ないのだから黙り込む黙り込むしかない。かつて600万年も前にエチオピアにいた二足歩行の人々は、森の中にいたのだろうか。

ルーシーは木から落ちて死んだらしい。


そこの世界(過去の時代)の音が知りたくてルーシーの骨に聞いても何も答えてはくれないし、ルーシーが伴侶と築いた幸せがどうなったのかぼくらには知るすべがない。

彼女の身の上を追体験しようと森に来ても海の底に沈んでもぼくらには何もわからない。

ニュースを最後まで読めばわかるけど(有料部分もあるのでぼかしますが)あそもそも歩くこと自体が二足歩行の生命に幸せ、生きる歓びをもたらすことが理解できます。

つまり余計な連中は訳知り顔で目を閉じたまま歩くなんてナンセンスだと言ってくるけど、ルーシーたち二足歩行を手に入れた類人猿は歩くことそのものに生きがいを感じていた。目が見えようが見えなかろうがそんなことはどうでも良かった。

そして二足歩行を手に入れられたルーシーたちだからこそ、末裔がこのように繁栄できたとも言えるわけです。つまりゲット・アップ・ルーシーとは現代のように人類へ繁栄をもたらしてくれたルーシーに感謝する歌であると捉えることもできてしまうのだ。

どうしてそんなことをしてくれたんだい?ルーシー。感謝したいし君の気持ちを知りたいけど、君は黙って目を閉じて歩いているだけだ。歩くことだけで幸せだった。別に自分の種族の繁栄なんて関係ない。幸せに生きていたら、子孫が勝手に繁栄していただけだった。ルーシーは偉大だ。

ぼくが一番痺れる答えは、この歌が決して類人猿のルーシーのことなど唄っていないという結末が得られることですが、別にそんなことをいちいち本人(千葉にも、もちろんルーシーにも)に語ってもらいたいとは微塵も思わないわけです。


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