映画「PASSING - 白い黒人 - 」は目に良いのか悪いのか
昨日書いたガンドゥというインド映画の感想の続きも書きたいんですけど、あヘッダ画像をお借りしています。Passing 白い黒人 という映画を観ちまったのでいま心がそちらにガンガン引っ張られてしまっている。
まずこの映画の読後感ですが――――――マクルーハンとかを題材にするメディアエンターテイメント系授業の題材として使ったら良いんじゃないかってぐらい白い部分と黒い部分の対比が凄まじいという点。
そしてサスペンスに分類される物語とは、冒頭および序盤で誰か死んでないといけないということがわかる、という2点でした。それぞれ観ていきましょう。
白いのと黒いの
主人公の女は黒人なんだけど、どういうからくりかはともかく黒人であることがばれていないため迫害を受けずに生きていられているという特徴があります。
で、ぼくはいわゆるダークモードで物事を見るということを視力維持のために推奨するnoteを書いているほど(ご覧になりたければトップページにリンクがございます)目に悪い演出がこの世には必要ないと思っていて、気取った映像とかゲームの敵エンカウントとかにありがちな「白飛び場面転換」みたいなのは「眼球という部位を持つ生き物つまり人間にとって害しか与えない文化」だと位置づけています。
しかしながらいま述べたようにこの映画はやっぱ黒人が迫害されていることがテーマなので演出に白跳び場面転換を使ってしまっている。
非常に残念ではあるんですが、場面転換だけじゃなくて普通に冒頭から真っ白な背景で誰かが喋っている状況から始まるんですよね。後から雑踏だってわかるんですけど。
で、これってだから「貴様ら(観客)は今、1929年の白人有利社会におるんやで」というメタファーになっている。白しか許されない世界なわけです。
完全白黒映画
いま思うとこの映画内で外にいる時は圧倒的に真っ白描写が多い。恐ろしいことにこの映画ずっとセピア、モノクロなんですよね。色がない。
いや流石にちょっとたった2色じゃなくて、今どきのなんか都合のいい見せ方で、客を飽きさせないぎりぎりあたりの色数で読後感的には「いや~セピアな映画だったけど飽きなかったね」と言わせられる効果を狙っている気がする。試写に試写を重ねたことでしょう。
黒が使われるのはどこか。それは自分が白人だという嘘をつかなくていい家の中オンリーなんですね。あとは夜の描写で思い悩むときも黒に含めていいのかな。
主役になんか危ういことが起こっとるで、あるいはその兆しがあるで、心情に寄り添った背景色(黒か白)にしとるで、みたいな見せ方を一貫して実施している映画なんだと思います。徹底しているなあと思った。
演出ばっかの話になっちゃいましたんでまた明日以降にこの続きかガンドゥの続きでお会いできたらと……お読みくださりありがとうございました。
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