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SNSと「効いてないアピール」の相関関係

SNSにおいて「効いてないアピール」をすることについて考えています。ヘッダ画像をお借りしています。


有名になると起こる効いてないアピ

効いてないアピをする時とは、自己書き込みが有名になった時がまずひとつあると話しました。そんなことでは動じない自分がかっこいいから。

もちろん本当は思いっきり動じている。動じているからこそ「動じていない人っぽいセオリー」を寸分たがわず踏襲してしまう。

余談ですが「有名になってしまう」ことを表す単語がありますが、ぼくは恥ずかしくてこの単語が言えないためこのような形を取っている。

Dragon Ashの陽はまたのぼりくりかえすが収録されたThird?EPの題名にも使われている英語ですね。降谷はそんなつもり無かっただろうけど(リリースは1998年とかだったはず)発話されるとマジできつい

成功体験とアドレナリン

一般的に自己書き込みに夥しい「見られ」とかシェア機能が巻き起こると、人は嬉しくなる。SNSのそれで嬉しくなることが正しいかどうかについて考えると、それだけでnoteまるまる何回かに分けて完成させる別の章が登場してしまうためちょっと避けておきましょう。

嬉しくなるってことはアドレナリンが出たりドーパミンが得られてしまい、また同じ多幸感を味わいたいと思ってしまうわけです。つまり本人の中ではSNSの数字を寄越された体験は成功体験に昇華してしまったことになる。

「あれ、俺ってワンチャン有名になれるんちゃうん?」「俺というインフルエンサーとSNSの相性良すぎ!?」みたいな展望を得てしまう。上記の良いか悪いか戦争と同じように、ここまでなら良い……のかもしれません。ただこの気持ちがもたらす次の行動に問題があると思われる。

次の行動とは成功体験をなぞることです。つまり過去における有名になった書き込みを成功と位置づけ、それと同じことをしよう、そうすればまた数字に溺れられる、有名になれる、と思い込む。

過去の当該書き込みが自分の意にそぐわなかったりイレギュラーなものだったりする場合は悲惨です。その書き込みって本来の自分がしたいことじゃないわけですから。

自分の心に逆らってまで、有名になりたいという成功を得ようとする。つまり周りの求める(と勘違いしてしまった形で)人間像になろうとする。「有名になるための書き込み」をしたいがあまりに、自分で自分を書き換えてしまう。

思ってもいないことを書き続けるだけの人生が悲惨じゃないのであれば悲惨ではありませんが……

極端に言えば、周りが求める(1mmも求めてない)人物像になる生活とは例えば目立つために極端なことをやるYouTuberみたいに無為なものです。次回はそれについてとネガティブな場合における効いてないアピについて。お読みくださりありがとうございます。



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