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失われた30年ていうけど何も失ってねえだろうが

或る表現する人が死んだ表現する人に対して気持ちを述べたインタビウを読んだ。ヘッダ画像をお借りしています。

それは演劇か何かの人だったが、いくつか離れた年の人が、下の人の死を悼んでいた。別にぼくはたとえ60歳ぐらい離れてようが、60歳上の奴が60歳下の奴に経緯を払えなければそれは知的生命体としての価値がないため、ぼくのなかでは年齢差がいくらあろうがクソどうでもいい。

しかしながらことこの例については、上のひとが死んだ人に芸名を与えてやったらしい。もちろんそれについてもだからなんだという法則が働くわけだが、自分を慕って名前をつけるほど親しくなった相手が先に逝ってしまうのは筆舌に尽くし難いようなことが想像される。

そして彼は、棺の中の彼を見、「起きろ」と叫んだらしい。ぼくはこれについてさまざまな思いをいだいてしまった。

一個目は、もしぼくが棺の中の彼の関係者だった場合どう思うだろうかというものである。ムカつくんだろうか。俺だって起きてほしいって思っとるわクソボケがと。

また、厳かに静まり返っているあの葬式という、人の死を見栄的イベントとして扱う最悪な空間を思う。静か、とか、厳かって感じは副交感神経が優位に成るリラックスすべき空間であると理解できるが、あの空間は静かかつ厳かに過ごすことが義務付けられている異常空間であるのに、決して副交感神経を優位にせず、交感神経で自分を律し続けながら過ごさねばならない。マジで異常だ。

日本が強いてる葬式の礼節に副交感神経で挑もうとすればろくでもないことになるのが目に見えている。トランスした状態で焼香してなんかいいことがあるか?トランスしながら来場者名簿を書かせて発展性があるか?

だけどそこで、逝ってしまった人の耳元で起きてくれって願うのは肯定すべきだろうか。斯様に張り詰めてるのに静かにしてなきゃなんない異常空間(さらには生魚すら食わされたりする)

において、急激に叫ぶおっさんがいたらどう思うだろう。その張り詰めた交感神経のゆき場は。葬式で副交感神経全開でリラックスしてるのなんてガキぐらいである。泣いてる親戚一同が死んだ人を燃やしに行く意味不明な目的を持ったバスの中で急激にクソうるせえ叫び始めたりしても周りが止めねえのなんの。

比較対象を生まれたばかりのガキと、故人に名付けた人と比べるのは違うかもしれない。上でも言いましたね。年を理由に経緯を払えないのはありえないボケだと。でもあの異常空間にコミットメントを見いださない存在と、見出すことを余儀なくされた存在とは天と地ほどの開きがあるとは想わないだろうか?

こんなことをこの先30年も繰り返し続ける気なら、確かに時間や意味性をどぶに捨てまくってるだろうなとは思う。

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