小澤征爾の言葉でチバユウスケを癒せたら
小澤征爾が示した「すべての楽器とは人間の声である」という言葉について考えたい。ヘッダ画像をお借りしています。
声は楽器であるのか?THEE MICHELLE GUN ELEPHANTにおいて声とは楽器であったとぼくは以前書いたことがあります。
再度当てはめると、アプローチがより明確になります。ちばはギター、ベース、ドラムの3人があまりにも説得力のある技術的な演奏で歌を構築する中、
(唐突ながら以下は後日明文化したい余談:
特にギターは「イントロからアウトまで俺のギターソロが鳴っているのがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの歌である」的趣旨のことを言ったことがあった気がする。
そしてそれは後期においてもそうだったのかはわからない。が、
そしてまた、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの最後の日だったあの日の幕張メッセにおいて恐ろしいことに最後の歌を演奏している際に彼の弦が切れ、この時に演奏されていた世界の終わりという歌は初めて自分を造ったコンポーザの手により、「ギターソロがあるバージョンの歌」として新しく生まれ変わったのだが、この面子に再度演奏されることはなかった。
そして、アウトまで俺のギターソロであるという良くも悪くも呪いのような言葉はまるで銀河を突き抜けるように、その「切れた3弦前後」が極めて奇跡的に電気ギターとアンプの増幅部分、受容体部分あたりで多分接触不良を起こし、演奏が終わり、全員が楽器をその場に置いてもずっとギターの音がなり続けるという現象を起こし、あべの言葉は最後まで現実となってしまった)
自身の声をただの歌唱ではなく、楽器としての役割を果たすべく、その可能性を追求したと考えられる。
彼の声は、食道に痛烈な影響を残してしまうほどつまり生命力を削ってまで振り出されたものであり、結果的に代償として重い病を得てしまうことになっても楽器として最後まで駆使し続けた。
声は、本来声として代替され楽器という形を経て人々にぶっ刺さり、痛みや苦悩となるような影響の限界を超え、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの歌を聴く人の心に届いたのではないでしょうか。
そしてTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTを好きな人たちとは、そのような意志の連帯が届くことにより当時なんとかつながっていたのではないか。
小澤征爾の言葉にさらにあるように、音は言葉や国、宗教、政治を越えるものらしい。後半のそれに歌が利用されることをぼくは好まないが、あくまで小澤の言葉をお借りした形だ。
生き様そのものであるこの声は、争いはどうして起こってしまうのだろうと言っていた。後期THEE MICHELLE GUN ELEPHANTでシングル化された歌です。
故に、彼が最期まで自らの喉を楽器として酷使したことは、音への根源的な情動と、表現への強い意志が重なっているようにぼくには見える。
彼の声を通じて、ぼくは人間の声の持つ可能性について考えることが2023年11月より前にもあったことを思い出す。
小澤征爾が語った音が持つ元来のちからや本質は、このような形でもクラシック界ではない世界にも響いていたのではないだろうか。