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ものすごくうるさくて、ありえないほど近い の感想

ぼくは「ガキが嫌い」とはっきり言える大人を尊敬しています。誇りに思う。ヘッダ画像をお借りしています。

これはひどく「そのような」映画である。

トム・ハンクスのような超絶な技術を持った人間を序盤で殺してしまうことは非常に贅沢な予算の使い方であるといえる。つまり贅沢な映画だと言えるかもしれない。

この映画(題名が長すぎるから便宜上そう呼ぶしかない)の主人公はトム・ハンクスではなくなってしまったように感じる。多くの場合、トム・ハンクスクラスの演技する人がいる場合、余裕で主役はトムだろうと思ってしまう。

しかしながらこの映画の主役はガキであるように思える。序盤でハンクスは死んでしまう。

つまりこの映画はガキがお父さんであるハンクスの死を乗り越える感動巨編なのだろうと思って今見ています。まだ見終わっていないためです。

見途中の映画の感想noteを書くことにはぼくにとって大きな意義があります。それは映画の本質をまだ見抜いていない未熟な状態である可能性がある時点で感想を書き、もし最後まで映画を見た場合には何かしらの落差がそこに得られるはずであり、その落差にこそまだ見ぬ価値観が眠っていると思えるためです。

ガキの名前はオスカーといいますが、いくら親を亡くしたから(お母さんなh生きているのだが、それをこれっぽっちも喜んでいないほどお父さんに入れ込み過ぎていたという下地がある)といって同情の余地がないガキである。隣のマンションに住むおばあちゃんをトランシーバーで叩き起こし、お父さんが残した手紙(そもそもガキに宛てたものかどうかもわからない)にブラックという名前が書いてあり中に鍵が入っていたからという理由だけで、市内(?)のブラックという名字の人を訪ねる。

相手の都合などお構いなしに尋ねる。ガキ特有の自分の利益が優先されて当然という行動です。

各ブラック氏はガキを受け入れてあげる。この時点でぼくは、この映画がハンクスがオスカーに対して自閉症気味(そう?)な弱点を克服すべく、多種多様な人がいそうな名字の人と触れ合わせる策略をめぐらしていたのかな、そういう映画なのかもしれないと思い始めましたがこれはこのnoteのメイン考察にして余談です。

またガキは自分のマンションの受付のおっさんをかなりハイクラスに見下している。なんといいますか、ぼくが当事者だったら殴って免職されてるんじゃないかなというような罵倒を叩きつける。

さらに、おばあちゃんの返答がないからと勝手に押しかけ、部屋を間借りさせているという謎のおじいさんにほとんど虐待とか迫害レベルの言葉の暴力を振るう。当該老人は声が出ない。それなのに声を出す努力をしたか、声を出せと、お前の仕事は人に迷惑をかけるものか、などと他にあげつらえばぼくも読者も穏やかではいられないので省くが、その果てに自己がハンクスの死を受け入れられないことをまくし立てて告白する。喋れないという障碍を抱えた人間をサンドバッグか何かだとでも思っているのか?メンヘラ豚が

挙句の果てには(細かく言えば上記の直前)お母さんに対し、ハンクスでなくお前が死ぬべきだったという。

視聴者にここまでの怒りを喚起できた上で、このガキの演技力を買うべきなのかも知れません。ただ、ガキがガキの演技をするという試みは、ガキが大人の演技をするよりも簡単そうにぼくには思える。

トム・ハンクスへの信頼ひとつだけでぼくのモチベーションが保たれたこの映画の終わりを見るのが楽しみで仕方ありません。












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