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腐ってしまった男が「人」を殺したくなる気持ちとは

マジで良い映画でした。2023年最強の映画です。92年の映画ですけど。ヘッダ画像をお借りしています。

セント・オブ・ウーマンという鬼のように感動的で長い(見ていると全く長く感じません)映画を見ながら、主演(主役かどうかは見た人の主観が大きく左右するかも知れません)のアル・パチーノについて思いを寄せたnoteを書いています。


昨日書いたnoteでは、セント・オブ・ウーマンにおけるアルの見せ場について列挙しながら、この映画の良さについて再確認しようとしてました。

なんですが、―――長いから途中で止まりながらnoteを書いてたんですが―――最後まで見終わってぼくはものすごく感動してしまった。

そして色々なことを考えた。ぼくはちょうどフランク・スレード中佐がめちゃくちゃ軽い気持ちで、だからまるで軽口のように今日自殺すっかな、みたいな考えを示唆しつつも羽目をはずしそうではずさなさそうな夜遊びにあけくれる様をコメディ感覚で見入っていた。

そこで一時止めて、再開した。前回のぼくの意思にしたがってセント・オブ・ウーマンの極めてクリティカルなシーンを挙げながら説明するのであれば、フランクの凄まじいダンスシーンが直前にあった。

アル・パチーノは目が見えないフランクを演じながら完璧に踊って見せる。そりゃアカデミーにもなるわって感じでした。ぼくは見終わってからアルがこの映画でアカデミーになったことを知った。

でもその後のフランクたるや、次のクリティカルなシーンを見せるまでになってしまう。クリティカルの度合いが非常にネガティブな方に振り切れているのだ。

つまり自殺は心からの本意だった。バイトとして従者のようにフランクに付き従っているチャーリーは、序盤こそこのバイトの正当性を疑うほどフランクの人格を否定したい感じの心模様だったけど、自殺に至ろうとするフランクを見てうわーマジだと理解したチャーリーは止めるわけですね。数日前までどうでもいいと思ってたクソ親父の命を、他人であるチャーリーは止めようとする。

ここまでは、フランクがクソ親父だっていうのは自他共に認められてはいない感じだと思っていた。そりゃ「他」は認めるけど、「自」己であるフランクは自分は目が見えなくなっただけで誇り高い軍人だと自分のことを評価していそうだった。

けどフランクはどうやら自分の人生に引っ込みがつかなくなっていただけっぽかった。あるいは、最初は気づかないふりをしてたりそんなことあるわけねえよと鼻で笑ってたのかも知れないけど、目が見えなく自分のパフォーマンスが低下
(映画見るとわかるんだけど、まるで低下したようには思えなかったりもします。そりゃこれは映画であり作り物であり、演じたアルは目が見えるんだからそりゃそうかもしれないけど、盲目の人ができる範囲の行動力、能力じゃないわけです。フランクは。元軍人とはいえ、常人を越えた部分を持つ盲人なわけです)
した現状が次第に受け入れられなくなった。

それはそれまで見えていた目が見えなくなってしまった世界とは、絶望以外の何物でもないと思われます。しかも自分のミスでそうなった。やりきれない。

つまりフランクは腐っていく思いを抱え、自分という人を終わりにしてやろうと、ぶっ殺してあげようという内向きの気持ちが働いた。

決して拡大自殺ではないわけです。……一部この映画を見ていると、フランクが拡大自殺をしようとしてるような部分もないわけではないのですが……(フランクがチャーリーを載せて試乗車を暴走させるところ:これもぼくが考えるこの映画のクリティカルなシーンでもあります)


軍にいた者とは、軍で優秀だった者とは(中佐なんだから優秀だ)、軍にいられなくなったのであれば飛べない鳥みたいなものだ。

誰かを巻き込む自殺と、自分だけが死ぬ自殺がある。つまりこの行為者が抱えている気持ちとは誰かを殺すという主目的に至るまでになにかの共通点があるように思える。

腐った人生を送ってしまい、あるいは何か外的要因で送らされてしまい、知識人や政治家をぶっ殺したり、学校で乱射したりする奴らがいますね。

ぼくはマーティン・スコセッシの映画として初めてタクシー・ドライバーを見たんですが、今ではスコセッシがやたら好きなもののこの映画は受け入れ難かった。

ドライヴァーを演じたデニーロが政治家をぶっ殺そうとして、色々あって色々誤解されて逆に英雄になってしまう。デニーロも役柄上また退役軍人だった。フランクとは違い、腐った気持ちは外側に向かった。

ということを踏まえてセント・オブ・ウーマンが好きな理由をまた明日以降にお話したい。お読みくださりありがとうございました。

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