聞きたくない声と信じられない音量でも聴ける声
聴ける方の声とはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの歌である太陽をつかんでしまったであり、つまりは千葉の声である。ヘッダ画像をお借りしています。
なぜ聴けてしまうのか?これが……わからない。地下のステージで自分で演奏したり、人の演奏とかを聴くのは(後者はたまに最悪だったが)ガンガンやったことがあんだけどそうでもなかった。鼓膜が何度もよくない刺激されて、明らかに弱ってる感じがしたからもうあまりそういうことはしたくないな、とは思っていた。
ドラムのハイハットの音とか、電気ギターの音なんだろうか。あー今日はだめだろうな、みたいに思うことがあった。自分が作った歌を身内に演奏してもらうのでもきついときがあった。多分最後の方は慣れていたと思うんだけど。
太陽をつかんでしまったをぼくは演奏したことはないが、信じられない音量で聴いた経験は死ぬほどあった。そのときにも上記ことを思ったことはあったんだろうけど、やっぱ慣れたんでしょうね。
だからなのかなんなのか、サブスクとかで太陽をつかんでしまったを聴くと、「なんか音量小さくね?」と。
というのもこの歌───といいますかTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのボリュームチャンネルが──阿部と上野の音をしっかり区別させているため右か左か忘れちゃったけど(こっちから見て阿部が→で上野が←なので多分そんな感じだろう)、あとリズムギターも別途流しているので、基本的に上野のベースはあんま聴こえないわけです。
つかん~~~で~~~の部分で聴こえる、ドゥルルルンみたいなベースラインの動きが「あることを事実として事前に知っている」から「あ、聴こえる気はするな」という程度であり、実感として聴こえてるかと言われると疑問が残る。
だから畢竟音量を上げるしかないんだが、ぼくはでかい音がすっかり嫌いになってしまったので最大音量で太陽をつかんでしまったを聴いていた自分にはっと驚いた。
嫌いな音といいますか声については嫌いと宣言してしまったので要領を得ない。昔どんな音が嫌いか、声が嫌いかについてさんざん書いたので(こんなに書いてたのか)、見る必要なさすぎるけどこっからお選びになられて。
https://note.com/fuuke/n/n5329c56ce985
https://note.com/fuuke/n/n23efd91a1a10
https://note.com/fuuke/n/nffb8f70d5bce
https://note.com/fuuke/n/nca3e54569e3b
こう見ると作った声つまり市場にブランディングしてリーチするための声が嫌いなのに、市場に産業ロックとして(レコード会社はそんなんだろうけど、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT当人についてはそうでもないだろうが)射出された歌については同じようにリーチしようとブランディングの結果なんだろうけど、なぜぼくの耳は都合よくうざがらないのだろう?
贔屓とかそういうのを抜きにするかしないかとかじゃなく、ぼくはでかい音はなんだろうと不快なはずなんだけどわからない。作られた声や、普段声が小さい人がマイク音量を抑えめに設定してるくせに興奮した時に急にクソ迷惑な金切り声にされるあの不快さは書くに及ばないほど言わずもがななんだが、抑えてても作り声はうざかったり聞くに堪えなかったりする。
He got the Sunの部分なんてまさに金切り声でシャウトしてないか……?なのになぜ不快じゃないのだろう、と思うのだが、もはやわからない。単純に慣れてしまったのか、だったらなんかなにかに隷属していた奴隷みたいな扱いをされた人とかも同じような目に合ってしまうのだろうか。ぼくは好きで聴いてたから贅沢なものだが、それはストックホルム症候群に近いものなのだろうか。身体は嫌がっているが、心は求めており、でもそのままでは身体がぶっ壊れてしまうから自衛のために不快じゃなくなる信号が脳とかから射出されている?うーん……
ぼくはよくSNSとかで、「歌がない生活はありえない」とかタワレコの寒いキャッチコピーをそのまま盲信してるタイプの書き込みを見かけた時に、歌なんて四六時中聴いてたら頭がおかしくなるとしか思えなく、また気分が落ち込んだ時に歌に慰められるとか言う話も聞くけど、そのたびに気分が落ち込んだ時に、他者の怨念みたいな思いが詰まった重苦しい歌を心で受け止める余力なんてあるわけねえだろとしか思えないので無理やり歌を聴かされるなんで拷問でしかないのだが(不良の森とかNo surprisesみたいな言ってることはオワだけどチルい歌なら聴けるかも知れないが、言ってる世界が怖すぎるので無駄な気がする。だったらもはや何の思想も介在しない、雨の音とか焚き火のASMRを聴くべきだろう)、好きな歌を聴くという行為ひとつとっても、心と身体に乖離があるのだろうか。