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拡大自殺と巻き込み型自殺は違うのか?

ぼくは結論を出せませんが、少し考えたためアウトプット代わりに書いています。

ヘッダ画像をお借りしています。

まずこの

「拡大自殺」

という概念をご存知でしたか?ぼくは当然知らなかった。

ごく最近では拡大自殺例が目立つそうです。アメリカの銃の乱射とかもそうらしい。

銃乱射における拡大自殺の構図は以下のようになる。

死にたい
→銃を持って人の多いところに行く
→銃で人を殺しまくる、あるいは傷つけまくる、人に迷惑をかける
→駆けつけた制圧機関により、自分の命が断たれる
=自殺

というものです。

専門家によると、拡大自殺という言葉が使われる背景には「情緒感を排すため」という考え方があるらしい。

自殺に情緒など存在するか?

拡大自殺のひとつのカテゴリとして「心中」がある。

明治文学だの大正文学だので頻繁に登場する思想ですね。悲観的であり情緒がある。厭世観を体現し、愛する人と2人だけの別の世界へ向けて今を去るというファンタジーすら感じる読者もいるのかも知れない。死ぬことこそ美であると。ぼくはそう感じません。

健康的に生きておられる方々におかれましては、死が情緒などとは微塵も思わないのではないでしょうか。ぼくもそこまでは思いませんが、思わないと断言してしまうとあまりにも世界のエンターテインメントは人の死を扱ったものもので溢れかえっていて、まんまとそれらを享受している。

あたしがコートニー・ラブじゃない

このように、死が美化されてしまうことがあります。カート・コバーンとか。

現代では、有名な人がおそらく自分で命を断ったと思われる事故が起きた場合、後追いをするなと著しく公的機関が呼びかけます。

ただ、別にぼくはそれをいずれも間違っているとは思いません。

いずれも、とは後を追って自分で命を断つこと、それを「すべきでない」と公的機関が呼びかけることどちらも、ということです。

でもぼくは、誰か好きな人の後を追って死ぬみたいなファッションとしての、ステータスとしての死で大切な人の命の終わりを迎えたいとは思わない。幸いにも周りにそのような人はいなかった……ような気がします。もしかしたらいたのだろうか。

ともあれ、死が美しいかどうかは人の価値観に左右されるものです。

人の価値観がその生命の数だけ存在している以上、答えを出すことはできないのですが次回はそれを踏まえて拡大自殺って何だよ的なことについて書かせてください。

今日も一日お疲れさまです。これから一日が始まる方はなんとか乗り越えてやりましょう。

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