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チェルぺっさん

ぼくは最近、麻薬捜査官を描いた映画「ブルドッグ」を見始めた。ヘッダ画像をお借りしています。

まだ終わりまで見ていないが、そのスキンヘッドの主人公にどこかで見たような覚えがある。ジョン・トラボルタを最近異様な回数見ていたから、ジョントラに似ているのかと思ったが違った。

平野啓一郎とpeco(ぺっさん)の対談を見ていて、ふとその主人公がリュウチェルに似ていることに気づいた。

チェルの生き様について聞いて、衝撃を受けた。彼の生き方は、まるで「ブルドッグ」のことを忘れさせるほどに凄まじかった。

チェルは離婚後も元妻のぺっさんと自分の子供のために日本からグアムまでサマースクールの出迎えのためだけに渡航し、わずか2日滞在してまた2時間かけて帰国したという。その後逝ってしまった。

ぺっさんによるとグアムでのチェルは子供をそっけなく出迎えていたようだが、ぼくはチェルにとってはそれまでの会話で充分に子供との時間を過ごせたのだろうと思う。さらに彼はぺっさんへのケアも忘れていなかったのだ。逝去する前日にはグアムでの礼をメッセージで送っていた。それはグアム時間では深夜だったらしかった。

このエッセイは、ブルドッグの続きを見ることを忘れないために書いている。しかしチェルの生き様はそれ自体が物語として完結してしまっている。1歳で親を亡くした平野啓一郎の姿は、あまりにも偶然にチェルとぺっさんの子供の未来の姿と重なる。

この物語の中でぼくは何を見つけることができるのだろうか。ブルドッグを見終わった後、ぼくは何を感じ何を思うのだろうか。チェルのように何かを残すだろうか。それともただの観客として物語の終わりを待つだけなのだろうか。その方が楽です。いままでもそうだったし、これからもそうに決まっている。

生とは予測不可能なストーリーの連続……とまでは思わないが、その中でぼくたちは自分の役割を見つけ演じるのだろうか。チェルのように短い時間の中でも意味のある行動を選ぶことはあるのだろうか。それともただ時の流れに身を任せるのか。さっき言ったように絶対こっちだろう。

ブルドッグの続きを見ることはぼくにとってただの映画を見る行為以上の意味を持ち始めているのだろうか?それは生と向き合い自分自身を見つめ直す機会なのだろうか。チェルが何か応えてくれるのだろうか。

ぼくはこの通りバーチャルの世界にしか生きられないが、人々が生きるこの世界には無数の物語が存在しそれぞれが独自の意味を持っている。それぞれが独自に意味を持っていると思わされることを強いられている。異常な尊重の上に成り立っている。

そしてそれぞれの物語は、見る人によって異なる影響を与える。ブルドッグの物語も、チェルの生き様も、そしてぼくの物語も、それぞれが独立した意味を持ち、誰かの心に何かを残せるのか。何かを残さないといけないのだろうか。

チェルとぺっさんの物語は愛と犠牲みたいなことの上に成り立っている気がする。外野がどうこう言うことではないことだけはわかる。彼女たちの生き方は自分自身の幸せを追求するだけでなく、大切な人の幸せを願うことの大切さを示している。この教訓はぼくたちが自分の生をどのように生きるべきか、どのように他者と関わるべきかを考えさせる。

ぼくはブルドッグの続きを見ることを忘れずに、チェルの生き様から何かを学びたいのだろうか。生き物はどうしても意味のある選択をすることの重要性を認識したくてたまらないらしい。そしてそれぞれの選択が、ぼくたちの人生にどのような影響を与えるのか常に意識しながら生きるほど無駄なことはないので、エンタメはエンタメとして今日も楽しもう。

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