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メガネ君は忘れられない



ーーーーーあなたは今、どこに居ますか?元気に笑えていますか?


ふいに浮かんだ面影に、心の中で語りかけた。

彼女と僕の間には、何も無かった。それでも時折こうして思い出すのは、“何も無かったからこそ“なのかもしれない。

新型のウイルス騒動で縮こまっていた心身を癒やすため、せっせと二回のワクチン接種を終えた僕は、何度目かの緊急事態宣言明けを待って久々の一人旅に出発した。

アナウンスに従って座席シートの角度を修正し、その振動でズレた眼鏡をかけ直す。そして焦点の合ったレンズ越し、着陸体勢に入った機内から福岡の街を見下ろしていると、同じように一人旅でこの地を訪れた五年前の記憶がぼんやりと蘇った。

その沢山の思い出の中でも一際強いインパクトを放っているのは、まるで彫刻のように整った顔立ちをした綺麗な女性の、赤く染まった瞳。

そして僕は五年前と同じ空港に降り立ちながら、僕と彼女の人生がほんの少しだけ交わった、そのたった数十分だけの、まるで事故のように突然始まって花火のように一瞬で終わった出来事を、見終わった映画の余韻に浸るような気持ちで思い出した。


・・・・・


福岡市内のほぼ中心地にある大濠公園は、全国有数の水景(すいけい)公園で、大きな池をぐるりと囲む形で形成されている緑豊かな公園だ。その歴史は古く、もともとは戦国時代に築城された福岡城の外堀だったらしい。

約一ヶ月前、ネットで福岡の情報を検索しながら旅行計画を練っていた時にこの公園の写真が目に入り、必ず足を運ぼうと決めていた。福岡出身の知人が言うには「関東から行ってわざわざ見に行くような所でも無いよ」との事だったが、僕の一人旅は訪れた街を自分の足で散策するスタイルで、その池と緑のコントラストの風景の中を歩いてみたいと思ったのだ。

博多駅周辺で一泊した翌朝、天神を通って福岡タワーまで徒歩で向かう行程に大濠公園を組み込んだ。博多周辺に点在する神社や中洲川端(なかすかわばた)の商店街に立ち寄りつつ、正午過ぎに大濠公園に到着し、まずは池の周りをぐるりと一周して園内の雰囲気を味わった。

水鳥たちの浮かぶ水面。緑深い遊歩道。美術館や能楽堂といった文化的な建造物があるかと思いきや、その次には小洒落たカフェが出現する、独特の空気の流れる公園。

家族連れやランニング客で賑わってはいるものの、どこかゆったりとした雰囲気に包まれているこの空間を気に入った僕は、思い切って一人でボートに乗ってみようと、先程見かけたボート小屋に向かった。

周囲のボート客はほとんどがカップルかファミリーで、おそらく仕事をサボり中らしいスーツマンが一人乗り用の足こぎ式アメンボサイクルに乗っていたが、僕はこの池の中心でゆったりと横になってみたいと思い、定員二~三名向けの手こぎ式のボートを選択した。一人でこれに乗るのはなかなかにハードルが高い気もしたが、そもそもが一人旅、せっかくやりたいと思った事を人目を気にして思い止まるなんてもったいない。

自動券売機でチケットを購入し、入り口の係員に手渡す。チケットを受け取った若い女性の係員が、桟橋の奥に居たオーナーらしき中年男性に声をかけ、僕は沢山のボートが立ち並ぶ桟橋に誘導された。

オーナー男性は、少し驚いたような顔で僕に「あれ?お一人ですか?」と確認した。やはり、一人で手こぎ式ボートを利用する客は珍しいのだろう。僕は、もしかしたら変に思われているかなと不安になりながら、「はい」と答えた。

「よかですね~!」

思いがけず返ってきた笑顔と博多弁に、何とも言えない嬉しさが込み上げる。

僕は少しくすぐったい様な気持ちのまま、ボート操作の注意事項を一通り聞き終えた。そして、「ゆっくり楽しんで!」という言葉を受けながら、いざ漕ぎ出そうとしたーーーーー正に、その時。

「そのボート待って!私も乗る!!」

怒声(どせい)にも似た大きな声と共に、淡いグリーンのワンピース姿の女性がこちらに向かって一目散に桟橋を駆けてきた。もちろん僕には心当たりは無いので、まさか彼女の言っている“そのボート“が、僕の乗っているこのボートの事だとは露ほども思わず、呆然と注視する。

次の瞬間、オーナー男性は長い棒状のもので僕のボートを桟橋に押しとどめ、彼女に向けて手を差し出した。見ず知らずの彼女が、当然のようにオーナー男性の手を取りひょいと乗り込む。

間近で見ても一切の見覚えの無い、おそらくは僕と同世代の三十歳前後の女性。手入れの行き届いた髪やネイル、シンプルなワンピースをさらりと着こなしているモデルのようなスタイル、そして有名ブランドのロゴが入った大きなサングラスで半分隠れている顔は、それでも彼女が美人さんなのだと推し量るのには充分なくらいに整っていた。

「ごめんね…一緒に乗せて?」

先程の大声とは打って変わって、しおらしい態度で対面に腰掛け僕を見上げる彼女。自分の身に起きた出来事があまりに想定外で、思わず思考停止する。

「べっぴんさんの彼女やね~!!兄ちゃん、喧嘩でもしとったとね?いけんよ、ボートで仲直りせんね~。」

まさか僕達が初対面同士だとは思えなかったらしく、勘違いしたオーナー男性が先程の棒でボートを押し、一気に桟橋と切り離された。

僕は、キツネにつままれたような気持ちで出航を余儀なくされた。


・・・・・


「強引にごめんなさい。迷惑…だったよね?」

この状況をどうすればいいのかと戸惑いつつ風向き任せで浮かばせていたボートの上、彼女はそう言いながら巨大なサングラスを外した。

日本人離れした彫りの深い顔立ちの、モデルのような美人が出現する。その整った容姿の中でも特に強い印象を放っている目元では、フサフサという表現がピッタリな豊か過ぎる睫毛の奥、薄茶色の瞳が輝いていた。

一体、何が目的なのだろう。新手の美人局(つつもたせ)や勧誘の類いか、もしくは悪質YouTuberが手がけるドッキリかもしれない。いや、単純に彼女の親しい人と僕のルックスが遠目に似ていて、思わず乗り込んだはいいものの彼女自身も困惑しているという可能性だって考えられる。

相手の意図が分からず返答に困っていると、彼女が自虐的に笑って言った。

「そうだよね…迷惑じゃ無いわけないよね。あの、私、今日どうしてもここのボートに乗りたくて、でも一人だけで乗る勇気も無いし、ずっとボート小屋の前で迷ってたの…それで、君が一人で乗ろうとしてるのを見かけて思わず…本当にごめんなさい。」

真剣な表情の謝罪に警戒心が少し薄れ、僕は率直な疑問を返した。

「えっと…どうしてもボートに乗りたかったって、何か理由があるんですか?」

「私、ここからすぐのマンションに住んでるんだけど、明日引っ越すんだ。それで…。」

彼女はそこまで言うと言い淀み、一瞬の沈黙の後で改めて口を開いた。

「明日、離婚届置いて家出するの。もう福岡には戻らない。この公園には沢山思い出があって、でもボートには一度も乗った事が無いなって気付いて…それで、どうしても乗りたくなったの。ごめんなさい。もちろん、お金は返します。」

彼女の鬼気迫るような告白は、とても嘘だとは思えなかった。けれど、あんな形で強引にボートに乗り込まれた側としては、やはりまだ納得はいかない。

「うーん…それなら、乗る前に声をかけてくれれば…無理矢理って危険だし…ううん、まぁ…でも…そうか、初対面で一緒にボートに乗せて欲しいなんて、普通は警戒しますもんね…僕だって断ったかもしれないし…。」

僕が独り言の様に自己完結させ、その最後に「なるほど」と呟くと、それを聞いていた彼女がプッと吹き出した。

「ゴメン…何かその…全部理解してくれて凄いなって…すごい真面目そうだね…ふふ。」

メガネで理系出身の僕は、真面目そうと言われる事には慣れっこだ。それに実際、自他共に認めるこの生真面目な性格は、おいそれと変えられるものでもない。笑われた事に対する羞恥心よりも彼女の笑顔の美しさが勝ち、半ば諦めた気持ちでオールを漕ぎ始めた。

彼女は小さく「ありがとう」と言って、黙ったまま周囲の光景に視線を移した。ゆっくりと進み始めたボートの上、まるでこの公園全体を愛おしむようにして穏やかな表情を浮かべている。

僕はせっかくの船上だというのに、ほとんど無意識に対面のその横顔を見つめていた。それは、異性としての下心というより、美術品に魅了された時の感覚に近かった。そのくらい、彼女は美しかったのだ。

そして、こんなにも美しい女性が離婚届を置いて家出をする予定だなんて、どんな人にもそれぞれ悩みがあるのだなと、ここ数年、人生に行き詰まりを感じる事の多い僕は、少しの親近感を覚えると同時、しんみりとした気持ちになった。

ボートを漕ぎ始めて、どのくらい経った頃だろうか。ふいに、彼女が口を開いた。

「名前も言って無かったね、ごめん。私、モエカ。」

「あ、僕は…。」

「言わなくていいよ。私のも源氏名だし。」

予想外の言葉に驚いていると、モエカさんは堰(せき)を切ったように身の上話を始めた。

出身は長崎で、高校を卒業後に福岡の美容師専門学校に進学した事。日本生まれの日本育ちだけど、祖母がベトナム人とアメリカ系白人の間に産まれた子どもで、その祖母と日本人の祖父が結婚して産まれたのが自分の母親だという事。だから少し日本人離れした顔立ちで、でも日本語以外は話せないという事。母親を早くに亡くし、父親は海上自衛官という職業柄留守がちなので、父方の実家で育って寂しい思いをしていた事。専門学校の在学中にキャバクラに勧誘されてアルバイトをしてみたら自分にあっていたので、九州一の歓楽街・中洲で働くようになった事。そして、そのキャバクラでトップ3を維持していたら中洲で名の知られた高級クラブから引き抜きにあい、結婚まではそこに在籍していたという事。

それは、僕や僕が今まで触れ合ってきた周囲の人達の人生とは全く違う、まるで小説やドラマの中の世界のようで、僕はまるで物語を聞くような気持ちで耳を傾けた。そして、彼女のバックグラウンドにある、おそらくはベトナム戦争の流れを汲むおばあさんの出自や、アメリカの血を継ぎながら長崎という土地柄に嫁いだお母さんはもしかしたら苦労されたのかもしれないな、といった事をぼんやりと思った。

それからモエカさんは最後に、旦那さんは仕事が忙しいので、明日自分が家出をしても、居なくなった事に気付くのは数日経ってからだろうと、さみしそうに言った。

伏し目がちにそう言ったモエカさんの、その豊かな睫毛にまた見とれていると、突然、少し離れた距離に浮かんでいたボートから女性の大声が上がった。

内容までは聞き取れないが、どうやら痴話喧嘩らしい。ハタチくらいだろうか、大学生風の若いカップルだった。

「いいな…。」

そのカップルに視線を投げかけながら、モエカさんはポツリと言った。僕はてっきり、その二人の若さや初々しさが羨ましいのかと思ったが、その続きに胸がぎゅっと詰まった。

「ああやって喧嘩できて…私なんか、喧嘩もしてもらえない…。」

それは、思わず出た本音だったのだろう。モエカさんは自分の口から出たその言葉に気まずそうにして、急に話題を変えた。

「メガネ君は、彼女とか居るの?結婚は?」

メガネ君という呼び名に少し照れながら、「独身で、彼女も今いないです」と返した。

「えっと、じゃあさ、彼女が出来たらどんなデートしたい?」

きっと、モエカさんはただ明るい話題に変えたかっただけで、この質問に深い意味など無いのだろう。けれど、生来(せいらい)生真面目な僕は、いつのもクセでちゃんと考えて、それから答えた。

「うーん…そうですね、観覧車とか、一緒に乗ってみたいです。二人で向かい合って、景色を見て、それで笑い合えたらいいな。」

途端、対面のモエカさんの綺麗な顔が、驚きの表情で固まる。

変な事を言ってしまっただろうか、あんまり子どもっぽかったかな、などと後悔していると、その顔がみるみるうちに憂いを帯び、茶色い瞳に涙を溜めながら、しかし笑って彼女は言った。

「私、本当に男を見る目が無いなぁ…あはは…メガネ君みたいな人と結婚すればよかった…。」


・・・・・


それから僕達はボートの制限時間が来て、陸に戻った。

二人だけの空間は立ち消え、途端に周囲の喧噪に包まれる。ボート小屋を出て花壇の端に寄り、ボートの代金を払うと言うモエカさんと、それを断る僕とで、しばしの間押し問答になった。

「えーっと…じゃあ、その、僕からの餞別って事にして下さい。」

その僕の言葉に、モエカさんがまた少し笑った。その目は真っ赤で、不器用な僕はそれに気付かないふりをする事しか出来無かった。

きっとこんな時、自分に自信があってモテる男の人なら、もっと気の利いた言葉の一つでも言えるのだろう。そんな事を考えながら、僕は自分が一人旅の途中だった事を改めて思い出し、これからの予定を頭の中に浮かべた。

「じゃあ、僕、行くところがあるので。何のかんので楽しかったです、ありがとうございました。」

軽くお辞儀をしながら言うと、モエカさんは「あ…」と一瞬戸惑ったようにして、それから自分の口から出かけた言葉を静止するように口ごもった。そしてぱっと笑顔を作り、「どういたしまして」と冗談ぽく言ってまた笑った。

それから。

ーーーーーそれから、最後に突然僕の腕を引き、ヒールの付いた靴で更に目一杯の背伸びをしながら、僕の左頬の下のアゴの近く、ほんの一瞬、触れるか触れないかの小さなキスをして、真っ赤な目を潤ませながら囁いた。

「…じゃあね、メガネ君。」

そうして周囲の喧噪に向かって駆けだしたモエカさんは、その後ろ姿すらキラキラと美しくて、僕は呆然とそれを見送った。


・・・・・


僕とモエカさんの思い出は、これでおしまい。たったこれだけの、旅先での一幕に過ぎない。

きっと彼女は、僕の事なんかもう忘れてしまっているだろう。

けれど僕は、ふと思い出したモエカさんの幸せを願いながら、空港のゲートをくぐり、五年ぶりの福岡の空気を感じつつ、地下鉄の案内板に従って足を進めた。

エスカレーターの上でリュックを背負い直すと眼鏡が少しズレて、僕はそっとフレームをかけ直した。







メガネ君は忘れられない・完


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