- 運営しているクリエイター
#note
noteという大都会の歩き方
あらためてnoteって「何か」感じるものが多い場所だなと思う。
いまどき、運営側もユーザー側もいい意味で「割り切ってる」ところがほとんどな中で、こうやって「割り切れない」ことを対話的に(ここ大事)考えられるメディア、プラットフォームって少ない気がする。そこそこ開かれた世界ではね。
きっかけはヤマシタ マサトシさんのツイートからの記事。僕も読んで前から思うところと重なるのがあって。
決して運営
盛り上がってると遠慮したくなるメンタルについて
言えないんだよなぁ。
あ、なにかちょっとだけ挨拶しとこうかな、話そうかなと思っても、もうそこに何人も人がいて、そこそこ盛り上がってたら割って入ってまで何か言うとかできない。したくない。
遠慮なんだろうか。小心者? 似てるけどちょっと違う。ひねくれてるわけでもない。あ、もう満ちてるなと思うのだ。
僕がわざわざそこに入らなくても、もう十分満ちてる。それ以上、何か加えたらあふれそうな気がする。場の
自分のイメージはつくれるけどつくらない
あえて、つくらなくていいや。と思ってしまう。
ライティングを通してブランディング(なんか手垢でべとべとするけど)とかグロースハック周辺に関わってたりもするのに、いいのか。
ダメだろう。イメージ大事。わかってます。だけどなぁ(心の声)。
なにを言うかよりも、だれが言うか。なにを書くかよりも、だれが書くかで世の中動いてるのは本当のことだし、だからなおさら「イメージ」をちゃんとつくれてないと、だれ
役に立つことばかりだと苦しくなるから
無駄なことはしたくない。役に立たないと意味がない。呪いですね、これはもう。業種職種問わず、無駄なことするな役に立ての無言の圧が浸透していて。
noteだってそうかもしれない。役に立つnoteはキラキラしてる(気がする)。
そんなのを見てると、ほとんど誰の役にも立たないnote書いてても何の意味があるんだろうと謎の虚無感に襲われそうになりますわ(語尾)。
「役に立つ」は怖い。役に立つは正義だか
自分でロケットを飛ばそうよ
世の中には自分が知らない悩みっていっぱいあるんだなと思う。あたりまえのこと言ってしまってる気もするけど。
今日もうさこさんのnoteを読んで、同じものを見てるはずなのに、それぞれ見えてるものは違う現象があるのをあらためて考えさせられた。
どっちの感覚もそうだよなと思う。登録時におすすめユーザー推しされてたからフォローする→フォローされた側は記事ゼロのユーザーにフォローされてもフォロー返す動機が