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関心ごとの熱さや深さの違いは当たり前だという話


自分の趣味の話を、近しい人に話したときに同じ熱さで話したいという、わたしの欲求がうごめくときがある。


でもこれが出る時は『注意』なのだ。


過去にこれで揉めたり、不快な空気感が発生していることがある。


当然のことではあるんだけれど・・・



ただ以前は、本気で自分の熱さは正義だと思っているところがあった。
今はその感情は存在するものの、俯瞰している自分がいる。

昨日まさにそんなことがあって、

自分の趣味に関心を示した人がいて、理解が得られる!と、またしても期待の感情がうごめいたのだ。

相手は『今関心を示した』だけなので、同じ熱さではない。
良いとか悪いとかではなく、当然である。
ここから先、関心を持ち続けるかどうかはわからないし、もし相手も関心を持ち始めてどんどん知識を深めたときに、『同じ熱さ』と言う枠にこだわる自分が逆に狭い気がしてくる。


つまりは、この感覚はやはり色んな意味で『注意』なのだ。



確かにね、知っていることを話しても反応が薄いのは寂しいなぁと思う。

これ、自分もやってるんだよなぁ。無自覚と自覚ありどちらも存在。

だからさ、傷ついた気分になるけど、これって普通のことだと言うこと。


と、同時に、


ここでこの趣味の話をするかどうかを考える機会でもある。

自分の趣味を思う存分話せる場所が、ちゃんと他にあることを思い出そう。

まず第1は、自分の中にある。

自分が自分自身に満たされていれば良い。


こうやって、書き出してみたり。
ここの場は自分の心の中なわけで、それを『もしかしたら』見る人がいるのかもしれない、と言うこと。



これまでも、どうしてわたしのことを理解してもらえないんだろうって本気で悩んできたし、周りの人同士で理解し合って仲間を作れている人を見ると、悲しいというか、孤独というか、その力がわたしには無いんだなと感じていた。

そうやって外ばかりを見ていたわたしの心の中は寂しかっただろうな。

自分がいるのに、って。




わたしの好きは最高だよ!!
そうやって自分を楽しんで行こう!!







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