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【原発危機管理はセイフティからセキュリティへ】

 原発の「国策民営」方式において、事故発生の責任がどちらにあるかが曖昧で、国が免責されうる構造に問題があることは間違いない。  津波予測から国と東電が法令に従って事前の津波対策をとっていれば、事故は回避できた可能性が高いと指摘した三浦守裁判官の反対意見は、「想定外を作らない」危機管理の考え方にかなっているといえる。  危機管理の考え方からすれば、「原発は安全である」としてきた国と電力会社が作り上げてきた「原子力安全神話」は、原発を操作する人がルールに従って運転し、機械がきちんと整備されて壊れなければ事故は起きないという、マン=マシン・インターフェイスの考えに基づいたヒューマンエラーを回避する「安全(セイフティ)」の論理だけに注目した偏った危機管理であった。この安全(セイフティ)は自動車運転の安全運転のように、マン=マシン・インターフェイスのシステム内だけで危機管理を考える偏った思考である。なぜ日本がそういう思考に陥ったかといえば、アメリカのスリーマイル島原発事故、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故、日本のJCO臨界事故など、それまで発生した大規模な原発事故がすべてヒューマンエラーによるものだったからだ。  それに対して、東日本大震災における福島第一原発事故は、地震による津波によってもたらされたものだ。つまりこれはシステムの外部からもたらされた力や攻撃からシステムを守る「防御(セキュリティ)」の論理が必要となるが、日本人は原発にこの防御(セキュリティ)の観点から危機管理を実行しなかった。原発に必要なのは安全(セイフティ)であり、防御(セキュリティ)ではないと思い込んでいたからだ。日本人は自分たちが作り上げた安全(セイフティ)偏重の「原子力安全神話」のマインドコントロールにかかっていたのである。  原発事故対策に必要な防御(セキュリティ)の事案にはこうした地震・津波のような自然災害以外にも、テロ攻撃、ミサイルや航空機による軍事的攻撃、ネットを通じたサイバー攻撃などがある。  原発事故対策の論理は「安全(セイフティ)」偏重の状況を脱却して、「防御(セキュリティ)」重視の対策にシフトしなければならない。危機管理上、福島第一原発事故から学ぶべきはこの点であり、この問題を改善できなければ、同じ過ちを繰り返す可能性がある。 (※この記事は朝日新聞コメントプラスに掲載した記事の転載です。)

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