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大正時代を考える~デモクラシーの隆盛と終焉に見る近代日本の分水嶺~②

今回は、前回に引き続き、大正時代について考えたいと思います。今回は主に「日露戦後から大正の幕開け」「第一次世界大戦への参戦」「政党政治と改造」の3つの観点から考えていきます。

日露戦争後の社会と大正の幕開け

1905年9月、日本はロシアとの間で講和条約(ポーツマス条約)を結び、日露戦争は終わりました。韓国の保護統治権の獲得や東清鉄道(後の満鉄)の一部租借権の譲渡が叶った一方、賠償金は貰えず、条約の締結内容に国民は不満を高めました。その結果、当時の日本政府の外交姿勢を糾弾する国民大会において、多数の人々は警官隊と衝突したのでした。そして、それに触発され、首相官邸や新聞社は次々と襲され、東京市下は混乱状態に陥りました。これが日比谷焼き討ち事件です。日露戦前から重い税負担に喘いでいた国民、特に東京市下で雑業に携わっていた職工や商人、彼らを雇っていた商店主・工場主はその感情を爆発させたのです。

注目すべきなのは、彼らに戦況・条約内容を伝え、そして扇動したのは「新聞」という存在だったことです。「新聞」というメディアの存在によって、都市で働く民衆のパワーは政治を動かすエネルギーに変化し、暴動へと発展していきました。後に起こる米騒動、住民運動、ストライキ、廃税運動の発生要因に共通しているのは、国民が共有していた政治と社会への不満でした。「国民」(ないし「民衆」)と呼称される人々の内訳は様々ですが(日比谷焼き討ち事件では都市で働く日雇いの労働者が顕著でした)、従来の政治社会システムに対抗しようとして共通の「力」を形成していく、これが大正の日本社会の幕開けに他なりません。

ニ個師団増設問題、陸軍ストライキ(上原勇作辞任)を契機とする大正政変では、第一次護憲運動の様相が興味深いと言えるでしょう。当該護憲運動の担い手は職工・商人・学生などであり、先の日比谷焼き討ち事件と異なるのは、学生もその運動の担い手に加わるとともに、運動が東京市から全国の都市へと波及したことでしょう。護憲運動で頂点まで達した「閥族打破」の声は、ジーメンス事件(汚職事件)にかけて「憲政擁護」を唱える声を押し出す力となったわけです。

知識人の思想

皆さん一度は教科書で習ったであろう吉野作造(1878~1933)は、「デモクラシー」の訳語として「民本主義」を1910年代半ばに提唱しました。一般的に知られる「民主主義」との違いは、国家の主権を「人民」に置くか「天皇」に求めるかの違いにありました。すなわち、吉野は「主権の運用」を強調し、君主国・日本においては「人民の為めの政治」を重視したわけです。しかしこれは同時に、「国民」を除外する枢密院・貴族院、そして「超然主義」的な政治ムードに対する批判を意味していたことになります。憲法学者の美濃部達吉(1873~1948)は、天皇機関説を提唱しました。これは「国家は法律上の人格を有し、法人としての国家が主権の主体となる」、すなわち「天皇は国家の最高機関である」ことを唱えました。天皇機関説には、上杉慎吉らの「天皇主権説」が対抗軸として提唱され、美濃部の天皇機関説は「天皇による統治」を否定するものとして痛烈に批判されました。

「民衆の力」が政治を動かす時代に突入すると、知識人たちは憲法の枠内で「天皇」や「国民」の定義と座標を確定するため、様々な国家論を提唱していくこととなります。

第一次世界大戦への参戦

元老・井上馨は、第一次世界大戦を「大正新時代における天佑」と呼びました。「天祐」とは天からの助け・加護という意味です。つまり、日本を救う千載一遇のチャンスが到来したということです。ここでの「救う」とは、主として経済・財政上の逼迫した現状を指していると捉えて良いでしょう。

今日の私達が思い描く第一次世界大戦のイメージは、二次大戦に比べて印象の薄いものであることは間違いありません。しかし、世界史の文脈においては大転換点として位置づけられます。それは総力戦体制の出現、新兵器の登場等、枚挙に暇がありません。日本は当初大戦をアジアから眺めているだけでしたが、日英同盟を根拠に、中国山東省にある租借地・青島(ドイツ領)へと攻め入るとともに、同じくドイツ領南洋諸島へと進みました。

大戦後、日本は欧米列強と肩を並べる一等国までのし上がりますが、一次大戦時のこのような東アジア進出、そして長期に渡るシベリア出兵は、他国における「排日」感と、日本の進出に対する警戒感とを生み出すこととなりました。また、規模・期間の拡大した近代戦争に伴う兵士の疲弊や軍隊の持つ負の側面(神話の解体と暴力性)の露呈が顕著となっていくのも特徴的でした。

「近代」の表と裏、生活の変化

一等国になった大正期の日本。大戦への参戦やデモクラシー的風潮を「光」とするならば、社会問題の表面化は言わば「影」の側面と言えるでしょう。一次大戦によってヨーロッパ経済は壊滅的となり、日本はその空洞を埋めることに成功します。空前の大戦景気を迎えた日本は、輸出の拡大、工業地帯の形成、成金の登場を経験します。

他方、『貧乏物語』『女工哀史』に見られるように、労働者の実態も浮き彫りとなり、社会問題として取り上げられるようになっていきました。加えて、農村の青年の意識も変化し、都市では「学歴」によって立身出世を果たす国民が多数生まれるようになってきました。「出自」だけではなく、自らの努力によって職業選択が可能となる社会、過酷な労働を強いられ、格差社会をひたむきに生きる人々の実像がメディアを通して可視化される社会が到来したのです。資本主義社会の抱える問題は、労働運動、労働争議、引いては労働組合の設立とも密接に関わっていました。1920年前後以降、「抑圧」されてきた人々自らがその社会的位置を自覚し、その権利と身分のために闘う意志を共有していったことは、争議の増加、プロレタリア文学の誕生、労働組合の結束、被差別部落の解放運動の進展によく見て取れるでしょう。

また、生活の変化に伴い、家族・家庭を取り巻く環境も大きく変わっていきました。大正期の特徴としては、「主婦」としての女性の役割が明確化されたことにあります。『婦人公論』等の主婦を対象とした雑誌が創刊されることにより、効率的・能率的な家事の在り方が積極的に取り上げるようになりました。「母性保護論争」のように、社会における女性の在り方を巡る議論も活発化しました。

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政党政治の実現と「改造」の時代

米騒動の鎮圧方法により非難を受けた寺内正毅が首相の座を降りると、原敬内閣が成立しました。よく言われるように、原は「平民宰相」による政党政治を実現させることに成功します。日比谷焼き討ち事件、大正政変と同様に、米騒動もまた、「民衆の力」が政治の方向性を変えたケースと言えます。原内閣期の政治と社会を俯瞰すると、四大政綱の実現、統治機構の再編成、教化運動・生活改善運動の推進、国勢調査の加速...と、国民の視点に寄り添った施策を次々と展開しているように見えます。事実、軍事・教育・国土整備に関わる事業では、以前の内閣では為されなかった政策が実行に移されていきました。

新聞記者出身の、文字通りの「平民」が首相となったことで、時代の流行語にもなった「平民宰相」、原内閣でしたが、そのような様々な政策は、彼が所属した立憲政友会と密接に関わっていました。また、国民の一番の関心であった普通選挙の実現に対しては「時期尚早」として判断をぼかしたのです。ロシア革命に伴う共産主義の蔓延等、背景は複合的であると考えられますが、「利益誘導型」の政党政治を作った側面は否定できないでしょう。「我田引鉄」という用語が、近代史を説明する際に何度も登場すること、鉄道史と社会の変化が密接に関わり合っていることは、その事をはっきりと伝えています。政党政治と利権の問題は、疑獄事件の表面化へと繋がり、軟弱な外交姿勢に対する右派からの不満は、後に政党政治の腐敗を招くこととなりました。その意味において、政党政治の実現は、矛盾と欠陥を孕みながら、昭和の戦争へと連続したのです。

大正時代は知識人による「改造」の時代とも表現できます。先に見た吉野の民本主義等の理論から発した「自由主義的思潮」の隆盛は、若い知識人達の意識を高ぶらせました。ジャーナリストとして、政治家として、エコノミストとして、大学教員(研究者)として、様々な立場から「社会改造」を模索する動きが活発化していきました。「民衆」に視点を合わせて社会改造を唱える改造の動きを、大きく4つに分けてみると、①民本主義の継続・発展、②社会主義運動、③国家主義的運動、④自治体による模索が挙げられます。ロシア革命、ソ連誕生という、世界史的なインパクトは知識人達に新しい高揚を齎しました。明治末期の大逆事件後、「冬の時代」を余儀なくされた社会主義者も、大正期以降社会の変革について議論を深め、国粋主義者は「国体」の所在を議論していくようになっていきました。また、文化・思想面で「民俗学」「民具学」「民藝学」が提唱され、「日本の原風景」の実態を掴み取ろうとした流れが大正中期以降、続々と現れてくるのは、不思議なことではありませんでした。モダニズムと交錯して知識人の関心を惹きつけた「日本的なるもの」の姿は、1930年代以降、戦争の足音が聞こえる時代に「戦意」を高揚させる道具と化していったのです。

以上、日露戦争後から大正期の政党政治、社会の変化までをトピックごとに概観していきました。次回は、植民地の風景、モダニズムと社会の変容、大正の終焉を扱っていきたいと思います。

(終)

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※ 文献は最終回末尾に記します。

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