『八月の砲声』平成前期の“大バズり” 戦争を止めた本の復刊
インターネットが普及途上だった2001年、長らく品切れとなっていたある一冊の本がネットを介して瞬く間に広がり、翌2002年に復刊されました。
今で言う“バズり”状態となったこの本は、『八月の砲声』(筑摩書房)。
第一次世界大戦がいかにして起きたかを描いた、長編ノンフィクションです。
朝日新聞に掲載された、とある特集記事で紹介されたことをきっかけに、
本書は思いがけずしてネットの大波に巻き込まれていきました。
復刊ドットコムサイトがサービスを開始して間もない頃の出来事で、当時の関係者をして「事件」と言わしめた『八月の砲声』の復刊。本記事では、当時の筑摩書房の関係者への取材をもとに、本書の復刊の経緯を振り返ります。
戦争を止めた『八月の砲声』
発端は2001年12月7日、金曜日のこと。
朝日新聞に掲載された特集記事「テロ後世界は/ワシントン」で『八月の砲声』が紹介されたことに始まります。同記事は、2001年9月11日のテロを受けて世界の情勢を洞察するもので、朝日新聞で編集委員、編集局長などを歴任したジャーナリスト、外岡秀俊氏による執筆でした。
外岡氏は同記事で、当時、アフガンの脅威に緊張感が高まる米国政府と、そこに漂う不穏な雰囲気に対し「『自制』問われる時」と述べ、かつて米国に訪れた危機を回避せしめた本として『八月の砲声』を取り上げました。
「1冊の本が、世界を変えることがある」という書き出しで紹介された本書。
記事によれば、本書は歴史上重要な転換点において、2度も絶大な影響を与えています。
1度目は1962年の「キューバ危機」。当時、本書を読んだケネディ大統領は、陸軍の全将校が読むように指示し、世界中の米軍基地に『八月の砲声』が送られたのだそうです。
そして2度目は1994年6月。北朝鮮の核開発疑惑が高まる中、米国家安全保障会議において、ペリー国防長官が『八月の砲声』に触れ、「相互不信や誤算が不測の衝突に繋がる」と危険性を指摘したことで、両国の衝突を回避する方向に動いていったのだといいます。
同記事中、『八月の砲声』は米国政府の「自制」の象徴であり、裏を返せば、“『八月の砲声』による3度目の危機回避”が求められる状況を示唆するものでもありました。雲行きが怪しい世相に鋭く切り込みながら、高い品格を併せ持つ文章は、小説家としても筆を取り、ジャーナリストとしても影響力のある外岡氏ならでは。同記事は多くの人に感銘を与えたに違いありません。
ですが、本書の復刊を語る上で、同記事の存在は序章にあたります。
同日夕方、同じくジャーナリストであり、TV番組のキャスターなどメディア出演も多い鳥越俊太郎氏が「ほぼ日刊イトイ新聞」で連載するコラム「あのくさ こればい!」で同記事を引用・紹介したのです。
復刊リクエストの呼びかけ、大きな渦に
2001年12月8日、外岡氏の記事が掲載され、鳥越氏のコラムでも紹介された翌日のことです。ユーザーネーム「まき」さんから、『八月の砲声』に復刊リクエストが寄せられました。
そして、どうやらその「まき」さんと思しき方が、鳥越氏に復刊ドットコムの存在を知らせ、同氏のコラムで復刊ドットコムを紹介してほしいというメールを送っていたようなのです。
すると、12月9日、今度は鳥越氏本人からの復刊リクエストが届きました。
6人目のリクエストだったといいます。
さらに12月10日、鳥越氏は宣言通り、自身のコラムで復刊投票を呼びかけました。これが非常に大きな反響を呼んだのです。
翌日、復刊ドットコムに続々と集まりはじめたリクエスト。
12月以前はたった2票だったのが、わずか数日で700票以上が集まりました。
前例を見ないリクエスト数は、本書の刊行元である筑摩書房でも話題になるほどだったといいます。当時、筑摩書房の担当者として関わっていた平井彰司氏は、当時の様子を鮮明に記憶していました。
「こんなにたくさんの人が復刊ドットコムの存在を知っていたのかというスピード感で、素直に驚きましたね。たまたま別件で営業部のフロアをうろうろしながらそんな話をしていた時、ちょうど復刊ドットコムから電話がかかってきたんです。立ったまま受話器を取ると、担当者が名乗ったきり何も喋らなくて。普通は『リクエストが大変なことになっていますよ』みたいなことをまくし立てると思うんですけど、固まっちゃったんですよね。今でもすごく印象に残っています。
それで、すごいね、ということを私から言ったんだと思うんですけど、その時は、翻訳本なので色々権利関係の確認も大変だろうし、随分古い本で印刷会社の体制もどうなるかわからない状況だったので、前向きに検討してみるという感じで電話を切りましたね。」
平井氏は、本書に限らず、復刊ドットコムの黎明期にはさまざまな相談に乗り、時には指南役を引き受けていた人物。当初は復刊ドットコムのサービスについて、「そう簡単にいくのか」という印象を抱いていたそうです。
しかし本書に関しては、電話口では慎重な回答だったとはいえ、前例を見ないリクエスト数は復刊に踏み切るのに十分な数でした。
その後、営業部から編集部、製作部、そして印刷会社へと矢継ぎ早に話が進んでいったといいます。
翻訳契約はすでに切れていたものの、エージェントの計らいで再契約にもそれほど時間はかからず、結果としては比較的短時間での復刊が決定。平井氏は「全てがすんなりとは行かないまでも、諸々当初の予想よりも順調にクリアできた」と振り返りました。
復刊が決まるまでの勢いと盛り上がり方は、昨今のSNSで度々見られる光景そのものです。しかし、2001年当時としては、一連の流れが稀に見る異例の出来事であったことは言うまでもありません。
歴史の名著として定着
さて、『八月の砲声』の復刊が決まった後、残す課題は制作部数の検討です。
日本における本書の初版は1980年、当時の筑摩叢書として選書の上下巻で出版され、その後1986年には四六上製の一巻本が新装版として再刊されていました。いずれも数千部単位での発行だったといいます。
一方、復刊時の部数は、復刊リクエスト数や書店での販売見込みから計画を立てる着実路線。復刊リクエストは多く集まっていたものの、近年のクラウドファンディングとは異なり、サイトに集まったリクエスト数と販売数は必ずしも同じにはならないからです。
また、新聞で紹介された書籍は、紹介されて1週間ほどはよく売れるものの、その後忘れられてしまうことが多いのだとか。『八月の砲声』は硬派なノンフィクションということもあり、最終的な決定部数は1000部以下になったといいます。
ところが、実際には本書が紹介された記事、そして復刊した本書の影響力は凄まじく、翌々年の2004年には大幅に部数を伸ばして、ちくま学芸文庫に収録されることになりました。
2000年代初頭は、新聞が持つ力がまだまだ強かった時代。復刊ドットコムに寄せられたリクエストを氷山の一角として、想像以上に多くの人が『八月の砲声』の存在に気づいていたということなのでしょう。
平井氏は、外岡氏による『八月の砲声』の紹介とその復刊について、次のように語ります。
「『八月の砲声』は、ピューリッツァー賞を取った名著ではありますが、マニアックな名著だったと思います。ところが、あの記事で紹介されて復刊した結果、近現代史における基本書の1つになったと思うんですよね。当然、欧米では発表された時からそのような位置付けにあっただろうし、今後も世界がきな臭くなるたびに、その都度読み継がれていくんでしょうね。」
皮肉にも、世界が難しい状況に置かれた時にこそ注目される『八月の砲声』。
第一次世界大戦から100年を過ぎてなお読み継がれる本書は、過去の教訓を忘れないという人々の意思の表れであると同時に、世界は今も変わらず先行きが不安な状況であることを示していると言えるかもしれません。
■取材・文
Akari Miyama
元復刊ドットコム社員で、現在はフリーランスとして、社会の〈奥行き〉を〈奥ゆかしく〉伝えることをミッションとし、執筆・企画の両面から活動しています。いつか自分の言葉を本に乗せ、誰かの一生に寄り添う本を次の世代に送り出すことが夢。
https://okuyuki.info/
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