中編

【中編】オルタナティブな未来〜一人ひとりが本領を発揮して生きていくためには〜

インタビュアー・黒田真衣さんによる渾身の取材。【中編】もなかなかの長文になっています。ぜひ、お時間のある際にお読みください。

【前編】はこちら。
https://note.com/fujimotoryo/n/nab67ae3192af

話し手:藤本(以下、藤)
聞き手:黒田(以下、黒)

黒:「ミーツ・ザ・福祉」の障害のある人の企画の話以外で、人に会うことで人が変わった瞬間っていうのはありますか?

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黒田 真衣(くろだ まい)
1997年京都生まれ。岡山大学卒業後、「一人一人が自身の可能性を見つけ、自分らしく発揮できる社会」を創るべく、広告代理店にて修行中。経済価値のみにこだわらない、(人間存在)価値主義社会を目指している。最近の関心ごとは、空間デザイン、コミュニティデザインなど。生活者の心に小さなワクワクを芽吹かせるには、街にどんなナッジを仕掛ければよいかを、インタビューなどを通してリサーチしている。会社だけでなく、大学在学中からインターン生として関わっているNPO法人ミラツクでも活動中。

藤:めっちゃ良いエピソードがある。「ミーツ・ザ・福祉」は、尼崎市の障害福祉課というところの委託の仕事で。なので予算がついていて、その枠の中でプロセスをデザインしながら事業全体を変えているわけやけど。障害福祉課としては障害啓発、つまり障害のある人のことを知ってもらうとか、あるいは障害のある人の社会参加ができる場をつくるとか、そういうことを目的としてやっている事業。だからその目的に沿って、ぼくらが具体的な内容をつくる必要があるわけやけど。

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藤本 遼(ふじもと りょう)株式会社ここにある代表取締役/場を編む人
1990年4月生まれ。兵庫県尼崎市出身在住。「株式会社ここにある」代表取締役。「すべての人がわたしであることを楽しみ、まっとうしながら生きていくことができる社会」を目指し、さまざまなプロジェクトを行う。「余白のデザイン」と「あわい(関係性)の編集」がキーワード。現在は、イベント・地域プロジェクトの企画運営や立ち上げ支援、会議やワークショップの企画・ファシリテーション、共創的な場づくり・まちづくりに関するコンサルティングや研修などを行う。さまざまな主体とともに共創的に進めていくプロセスデザインが専門。代表的なプロジェクトは「ミーツ・ザ・福祉」「カリー寺」「レトルトカリー寺」「生き方見本市(生き博)」「尼崎ENGAWA化計画」など。『場づくりという冒険 いかしあうつながりを編み直す(グリーンズ出版)』著(2020年3月発売予定)。

当然、障害のある人がメインターゲットというか、彼らのための場だということは間違いなくて。たとえば、会議の場をつくるとしても目が見えない人もいらっしゃるし、耳が聞こえない人もいらっしゃる。そういう人たちと一緒の場で会議をするにはどうしたらいいんやってことを考えるわけですよね。そしたら、ホワイトボードをテーブルに用意していつでも書いて消せるようにしたり、話しづらい人は「もう一回しゃべって」とか「面白いね」って書いている札を上げてコミュニケーションを取ってみようとか。グランドルールも丁寧につくって「ゆっくり話そう」とか「一人ずつ話そう」とか。みんな意識するんですよ。

そうするとどうなるかって、障害のある人たちだけではなくて、いわゆる健常者も居心地がよくなったりするわけです。健常者でもそういう場に参加するのかちょっと億劫な人とか、いきなり初対面の人と話すのがどうもみたいな人がいるじゃないですか。そういう人に対しても優しい場にできるっていうのがあって。

3年弱ぐらいずっと関わってくれていた全然福祉とは関係ない仕事をしている女性(現在は休職中)がいるんやけど、「ミーツ・ザ・福祉」の会議には参加したりしてるんですよね。本人が言っていたんやけど、すごく「ミーツ・ザ・福祉」が自分の居場所になっていて、自分自身でいられるような場で、すごく居心地が良いって。

ミーツ2019①

それはすごくうれしかった。「ミーツ・ザ・福祉」が目指しているあらゆる人がありのままでいられるということが形として見えたってことやから。障害という切り口からはじまったけど実はそこだけではなくて、健常者と言われる人たちにも居心地が良い場になってきたみたいな。

彼女自身も自分の表現の仕方が変わったりとかしていて。もともとはすごく真面目でかっちりとした考え方の人だったんやけど。いろいろと一緒に過ごす中で、イベント前日には「もう明日晴れたら成功やね」みたいなことを言ったりするわけですよ。最初の頃からは考えられへん、みたいな。人の見え方が変わる瞬間に出会えるのはほんまに面白いなと思います。

「カリー寺」で言うと、2019年は実行委員会に檀家さんも入っていて。20人くらいのメンバーで月一の会議をしてるんですけど、住山さんっていう定年退職したお寺の檀家のおじさんが半年くらいずっとその会議に参加してくれていたんですね。ほかの人たちは20代から40代くらいまででちょっと若いんですけど。

半年くらい一緒に過ごしたわけです。月一の会議や一緒に商品開発したり。あとは住山さんの家に行ってカレーパーティーをしてみるとか。そういう新しい関係性の中で、すごく面白いなと思ったことがあって。

カリー寺2019パンフレット_オモテ面 (1)

カリー寺2019パンフレット_ナカ面 (1)

言ったら彼は60数年、そのお寺の檀家さんなわけですよね。中平さんっていう現在の住職の年齢は40歳過ぎなんです。だから、住山さんが20歳くらいのときに現住職が生まれてるんですよね。つまり「住職の息子」として中平さんのことをずっと見てきたわけです。まなざし方がずっと変わらないというか。でも一緒にプロジェクトをやることによって、住職以外の側面がすごくたくさん見られたっていう話をしていて。

それは、大学で教える中平さんの姿であったりとか、お寺以外のいろんな活動に関わる中平さんの姿を見て「住職は、住職以外の活動というか、住職以外のご自身があるんだ」ということに気づいて、すごく見え方が変わったっていう。

これは結構、めちゃくちゃ大事なことを言っているような気がして。やっぱり人って同じ関係性やったら一面的なものしか見れずにイライラしたりとか、能力がないんじゃないかと思ったりとかする。でもそういう場をつくることで、他の人にとっては他の役割を果たしているんだってことに気がついたり、別の顔が見えたりとかするんだって。それが多面的に見えていくんやな、と思ったんですよ。

普段関わる場じゃない場をつくることによって、その人の別の価値が浮かび上がってくるみたいなところがあるっていうことに気がついたのが今年の「カリー寺」で一番面白かったなって思ってる。

逆に言うと、住職にとっても住山さんはずっと檀家さんなわけで。月参りでお話はするけれど「カリー寺」で半年くらい一緒にやる中で、話す深さが変わったって言ってた。お互いが全然コミュニケーションの質が変わったっていう話をしていて、すごい面白いなと思った。

【場の本使用】カリー寺

つまり「カリー寺」という装置を使って普段の役割を外しているわけですけど。住職であるということ、檀家さんであるということ、その役割や肩書きというのはなくなりはしないけど、一旦それを置いといて「カリー寺」というプロジェクトを一緒にやってみることによって、今までとは全然違う「ちゃんと個人の関わり合いができる」みたいなことになってたんやなって思いますね。

カリー寺関連:檀家さんとの交流

黒:面白いですね。

藤:そうなんですよ。肩書きを外すとか、普段の関係性以外の関係性をつくるみたいなことはすごく大事。

黒:「カリー寺」はそういう装置として最初から機能させようと?

藤:全然思ってないです(笑)。思ってたら、仕事になっちゃうと思うし。想定していないけど、偶然生まれてくるということに面白さがあるんですね。

黒:なるほど。

藤:なんだか、社会が目的的になりすぎている気がする。目的があって、それを達成するために手段を構築するみたいな。そうだと思う。それは正しいと思うけど、別の考え方もあるよねって思っていて。

ぼくは人生がそもそもそうじゃないと思いますよ。出会いで本当に変わるし、でもその出会いってコントロールできるものじゃない。今はいろんなツールがあるから出会いのデザインができると思っているかもしれないけど。facebookのイベントページを見ても「こういう人が参加するんや」とか。出会いがデザインできているように思うかもしれないけど、でも本当はデザインしきれないし、できなくって。その偶発の中に、実はすごい価値が眠ってるんじゃないかなって思ってます。

大切なことは、偶発性の中から生まれてきた価値をちゃんと掴みきる力みたいな。この住山さんのエピソードはすごく本質的や、超大事やみたいなことに気づくか、気づかないか。そこの差のような気がするんですよ。今、掴めるかどうか。その瞬発力っていうんですかね。偶発的なものから生まれてきた価値をきちんと掴んで提示する、みたいな。それが「普通の遊び」と「社会的遊び」を分けるすごい大事な差な気がする。あくまでも、仕事じゃなくて「社会的遊び」。

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黒:なるほど。遊びから、学びや価値を生むことができているかどうか。

藤:そう、それはすごく大事なことのような気がする。でもそれを追求しすぎると仕事っぽくなるから、それはバランスだと思うんですけど。

黒:ゆるく、その「社会的遊び」の価値を考えるコツってあるんですか?

藤:ゆるく考えるコツ?ぼくは過激に考えることがわからないので、ゆるく考えることしかできないんですけど、なんかどういう感じですかね?硬く考えちゃう?

黒:硬く考えちゃう人が多いと思う。わたしを含めてですけど。mustとかhave toでよく考えてしまうからだとは思うんですけど、これはなんのためなのかとか、目的ってつい考えちゃいませんか?

藤:まったく考えないわけじゃないけど。めっちゃ考えるんですけど、それは手放せるかどうかかなと思ってます。

黒:手放せるかどうか?

藤:すべてがコントロール下にあるわけではないと思っていて。さまざまな要素があって、いろんなことが作用しながら結果が出るわけで。それは、さっき言った面白がるっていうことにつながるけど。当然、自分が思ってなかったことに転がっていく可能性ってめっちゃ高くて。すべての物事が大体そうだと思うんですけど、そうなったときに「当初の目的をちゃんと入れ替えることができるか」とか「新しい目的をちゃんと据え直すことができるか」っていうスキルが大事だと思うんですよ。

それはさっきの「社会的遊び」っていう言葉につながってきて。暫定的に目的や目標を置くことはできる。ちゃんと目的に向かって歩いて、走っていくことも大事やと思うけど、すべてそうはいかないし、目的をそもそも据えづらいものもあるし、途中で変わってしまうものもある。そういう中で、ちゃんとその場その場で、据え直したり、捉え直したりするスキルが大切な気がする。

黒:なんか「自分の目に見えているものがコントロール下にないんだ」っていう意識がめっちゃ大切な気がしました。

藤:そうですね。ブログにもいつか書いたけど。「なんかやりたいんです」っていう人がいらっしゃったりするじゃないですか。仕事以外で自己実現したいとか、新しい自分なりの仕事や活動をつくってそっちで生計を立てたいとか、新しいチャレンジをしたいとか。いろんな方がいらっしゃる。

過去にそういう相談に乗っていて、自分なりに真摯に向き合ってちゃんと返しているつもりだったんやけど、かなり時間が経っても結局なにも行動を起こしていないということがあって。それに対して「いつやるんですか?」みたいに凄んでしまったことがあって。それでその人がすごい傷ついてしまって、それ以降来なくなったということがあって。

それを経て気づいたのが、早いか遅いかってことはその人が決めることなんだということなんです。客観的なスピードなんてものはない。その人がどうかということなんです。ビジネスの世界だったら一定のスピード感というものがあるし、その世界が求める速さみたいなものがあると思う。そこに対して合わせていかなければいけないっていうことももちろんあると思う。

でも、暮らしとかこういう活動とかって、価値を測るにしても速さを計るにしてもその人のものさししかないっていうか。ぼくにとって早いっていうのは、1ヶ月以内にやることかもしれへんけど、その人にとって早いというのはも3年かけてやるっていうことだったかもしれない。そこに思い至ってなかったなと思ったし、それをぼくがコントロールすることはできひんと思った。それはなんか良い意味でドライになるというか「そこはあなたの決定権です」って伝えるということでもあって。ぼくは今までしてきた経験をシェアすることはできるけど、それをどう料理するかとか、そもそも食べるかどうかっていうのは目の前の人にしか決められへんよね、って今は思ってる。

黒:なるほど。

藤:それがすごく大事なことのような気がする。

黒:あなたの決定権を大切にする。

藤:それは究極の意味では「その人を完全に信頼する」ってことやと思うんやけど、それがちゃんとできてないと、誰かの期待に応えようとしてしまったりとか、自分の心の声を聞かなかったりっていうことにもつながる。「信じて明け渡す」ってことは、結構キーワードかもしれないですね。

ミーツ花火②

黒:なるほど。信じるのが一番ベースにある感じがしますね。では、話がちょっと変わるんですけど、場のデザインについての話で「余白をデザインをする」っていうのは、今のお話の流れで大事にされてることだと思うんですけど、余白のデザインをする上で、最近難しいなって思うこととかってありますか?

藤:余白をすごく考えるんですけど、どうしても人間は自分自身の思考の枠組みに囚われてしまうし、概念に囚われてしまう。残念なのは、それに一人で気づくことはできないってことなんです。

最近の話で言うと「尼崎ENGAWA化計画」っていうのは、ぼくの屋号として、2015年からやってきてるんですが、会社をつくったということもあって、もうその屋号をぼくは名乗らないようにしようと思っていて。ありがたいことに1年ほど学生が関わってくれているので、彼らに「尼崎ENGAWA化計画」をどう使っていくか、どう育てていくかってことを考えてねって伝えていて。みんなに明け渡していこうっていうことをこの半年くらいかけてやってきたんですね。

で、いろいろと会議をしたりとか、どういう体制にすればいいかとかをとか考えたりするわけですよ。で、めっちゃ最近思ったんですけど、「これ遊びじゃないな」って。「これ仕事やん」って。

ちゃんと組織立てて動いていくようにするとか、「尼崎ENGAWA化計画」ってどんな価値があるのかみたいなことをみんなで考えるとか、コンセプトを文言化しようとか。大切なことではある気がするけど、「これぼくが嫌いなことかもしれん」と思ったんですよ。自分自身が「尼崎ENGAWA化計画」っていう名前にこだわってしまったんやろうなって。一応4〜5年やってきたから、ネットワークがあったりとか、それなりに知ってもらってたりとかはするし。でも、それにこだわりすぎてたなって思って。

「残さんとあかんとは思ってないと思ってたけど、思ってたかもしれん」みたいな(笑)。だから「ああ、もうええや」って思って。大事なのは、関わってる人というか、いや、関わってるとかじゃない、そもそも関わってるとかじゃない。関わってるって、その人一人をちゃんと見てない気がする。なにかがあってそこに関わってるみたいな感じじゃないですか。付属というか。

黒:主があって。

藤:その前に、だれだれっていう人間やし、人格やしみたいな。「関わってる」の前に、その人がいるっていうことをなんか見落としていたような気がするな。

黒:なるほど。

藤:関わるとか関わらないとかじゃなくて「みんながええ感じに遊ぶ」っていうのが一番大事なんだろうと思う。そのためになんか使えるもんがあったら、ここから引っ張り出しておもちゃ箱みたいに開けて使ったらええやん、っていう感じに思い直して。だからもともとは「尼崎ENGAWA化計画」のインターンって言ってたけど、「インターンって言うのはやめよう。メンバーと言おう」というふうに変えていったりとか。たとえば、月一で自分で文章書いてnoteにあげるっていうのは、絶対やろうみたいな感じになってたんやけど「全部もういらんのとちゃう?全部やめよう」とか言って、連絡やアイデアの格納のためのSlackだけ残そうみたいな。

そこからなにが立ち上がってくるのかっていうことをちゃんと見ていきたいと思う。でもちゃんと場をつくらないと立ち上がっていかないところもあるから、月一でなんか飲み会みたいな場をつくったりとか、ブラブラしながら尼崎を巡る合宿みたいなことを1泊2日とかでやってみたいとか。尼崎の面白いところをいろいろ回ってみんなでダラダラしゃべったら絶対なんか面白いアイデア浮かぶやん、みたいな。本来、ぼくはそういう志向性を持っていたような気がするなっていうことに気づかせてもらった。学生から。

質問はなんでしたっけ。余白のデザインの難しさでしたね。

黒:はい。

藤:その余白というものを意識をしていたくて。ちょっと質問からずれたかもしれないけど、概念に毒される、思考が縛られてしまう、自分で自分の思考を縛ってしまうっていうことがあって、それは他者によってしか気づかさせてもらえないっていうのを体感したってことなんです。それはすごく大事なことなんですね。

黒:メンバーの人たちから指摘をされたんですか?

藤:それは会議の場なんですけど、そういう話し合いの中で「なにが大切なのかな、どうしていったらいいんやろう」みたいな話を何回か繰り返しているときに「もう全部止めてしまってもいいんじゃないですかね」みたいなメンバーがいて。「藤本さんがやってるぶらり尼崎ツアーみたいなゆるい企画を定期的にやったら面白いんじゃないんですかね」みたいな。

で、いろいろ考えたら確かになんか遊びがないなって。最近入ったメンバーも「ここは真面目な場やと思ってました。会議してるし」って言ってて。「そっか。みんなと遊ぼうってスタンスじゃなかったな」って反省して、ギアを入れ替えてって感じかな。結局、質問にお答えすると、バランスが難しいってことやね。

黒:遊びとの?

藤:なにもない中で「遊べ」って言われたらすごく難しい。「なんでもいいから好きな絵を描いてください」ってすごく難しい、みたいな。「鳥の絵を描こうよ」みたいな、鳥の絵って限定をするからこそ描けたりするわけで、好きな絵をとりえずなんでもいいから描いてってのは難しい。

枠のつくり方、バランスはめっちゃむずいなといつも思ってる。どこまで枠組みをつくれば上手くいくんだろう、形になるんだろうって。でも、枠組みをつくりすぎると、その人の自発性を奪ったり、表現の幅を狭めたりするという葛藤が常にあって。いつもそれが難しいなって思ってます。

黒:感覚ですか。

藤:感覚ですね。あとは、少し話が変わるかもしれませんが、たとえば最近司会をしてるときに意識してることがあって。トークイベントとかでよく「近くの人たちと話をシェアしてください」ってあるじゃないですか。

司会者とかファシリテーターってめっちゃ暴力性を持ってると思うんですよ。つまり、ファシリテーターが言ったら大体やるじゃないですか。異議申し立てって基本的にめっちゃ難しいんですよ。「なんか違うな」って思ったとしてもやらんとあかん空気をファシリテーターはつくれるし。それってすごく暴力やと思うんですね。それを最近まざまざと感じてるというか。

シェアするということ自体はめっちゃ大事やと思うんですよ。一方的に聞き続けて積み上げていくのって難しい。アウトプットすることによって学びは深まるから。だから横の人と話してみるのってめっちゃ大事なんやけど、でも嫌な人もいるわけじゃないですか。そう思ったときに、ちゃんと逃げ場をつくるようにしたんですよ。

ミーツサミット③

具体的に言うと「いろんな話を聞いて、どう思ったか、なにを感じたか、なにに気がついたかを近くの人とシェアしてほしいです。だけど、絶対自分一人で考えたいという人もいると思います。一人で考えたい人は、一人で考えてもらって良いです。また、席を立って離れてみて、別のところに行って考えてもOKです。だけど、ちょっと話してみたいなって人がいたら、ちらっと前後左右を見てもらって、目が合ったらその人たちと組んでお話ししてみてください」って言うように変えたんですよ。

これって前と後では結構違うと思っていて。それは余白なのか、逃げ場なのか、言葉が少し違うかもしれないけど、それも自分一人だけでは気づけないというか、やっぱりフィードバックがあって、それをちゃんと受け取めて、具体的な方法や対処として今こうしているわけで。余白や逃げ場をより拡げていくことってできると思うんですよね。でも、最初の話と一緒で、自分一人だけじゃ気づきにくい。

黒:「自分一人では気づけないから、人の言葉や態度によって自分が気づく」っていうのは結構あると思うんですけど、その感受性を高めるために大切なこととかってあったりするんですか?

藤:難しいね。

黒:その人にとって気づきであろう瞬間を掴める人と、気づかずに通り過ぎていってしまう人って、感受性って言葉が正しいのかわからないですけど、アンテナがあるかどうかだとは思うんですよね。

藤:難しい。たとえば、話には常に些末なところと本質なところがあるじゃないですか。その本質をちゃんと掴もうという意識をそもそも持ってるかどうかっていうのは大事な気がしますよね。「その人が言ってることのなにが本質なんだ」とか「なにを表現しようとしているのか」。物事の裏側を見ようとするというか。そういう視線やまなざしをそもそも持っているかということはまず大事なこと。

あとは、繰り返すことかなと思います。表現をしたり、本質を探ってみたり。ファシリテーターをやってたら、それは必然的に鍛錬されるような気がしますね。
あと、自分の内面を見つめ続けるっていうことはすごく大事な気がする。相手の内面や表現されていない部分に気づくためには、自分の内面や無意識にも気づいてないといけないような気がする。感覚やけど。

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インタビュー中編はここまでにさせていただきます。ぜひ、次回の公開をお待ちください。

以下、みなさまにふたつのご案内があります。

ひとつめは、2020年3月に『場づくりという冒険 いかしあうつながりを編み直す(グリーンズ出版)』を出版します、ということです。藤本(株式会社ここにある/尼崎ENGAWA化計画)に関する記事をお読みいただいたり、活動をご覧いただいたりした方で共感してくださった方には、ぜひお手に取っていただければと思います。

【表紙完成・SNS用】場づくりという冒険

出版されましたらまたご案内させていただきますので、ご注目くださいますと幸いです。

ふたつめは、「オンラインスクール」をスタートします、ということです。

20200207 場づくりという冒険

「場づくりという冒険・オンラインスクール」は、「場づくり」に関するさまざまな実践事例から学んでいく双方向型のオンラインスクールです。ローカル、オンライン、コワーキング、ファシリテーションなど、多様な実践者のみなさんがゲスト講師としてお越しくださいます。2/20現在で15名ほどのお申し込みをいただいています

◯WEBサイト
https://peraichi.com/landing_pages/view/bazukuritoiuboukenschool

関心のある方は、上記WEBサイトをご覧いただき、お申し込みください。定員は30名(超えた場合は審査をさせていただくこともございます)。お申し込み期限は、3月8日の23:59までです。

最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。更新の頻度は不定期ですが、フォローなどいただけると大変うれしいです。