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映像としての希死念慮『たぶん悪魔が』を解釈する.01

ふと、2年前に高田馬場の早稲田松竹で見たロベール・ブレッソンの『たぶん悪魔が』(1977)のことを思い出したので鑑賞直後の自分が書いた批評に新たな解釈一部加えて書き起こしてみようと思う。

あらすじ・・・

裕福な家柄に生まれた美貌の青年シャルルは、自殺願望にとり憑かれている。政治集会や教会の討論会に参加しても、違和感を抱くだけで何も変わらない。環境破壊を危惧する生態学者の友人ミシェルや、シャルルに寄り添う2人の女性アルベルトとエドヴィージュと一緒に過ごしても、死への誘惑を断ち切ることはできない。やがて冤罪で警察に連行されたシャルルは、さらなる虚無にさいなまれていく。


ロベール・ブレッソンは、遺作である『ラルジャン』(1983) を先に見ているので手とお金のショットの印象が強い。
手といえばだけれど、ドイツルネサンスの画家アルブレヒト・デューラーの『祈る手』(1508)を思い出していた。

今作は、自殺願望に取り憑かれた青年のただひたすらに退廃的な数日間が描かれ唐突に最期を迎えるというなんともあっけない終わり。
希死念慮を映画にするとこのような映像になるのかとひどく納得させられた。
ポスターに起用されている場面写も素晴らしいが、どのショットを切り取っても様になるので無駄がない。
美青年が主役なのに、人物たちの顔の記憶がないくらい手や歩く脚のショットが多い。顔を写さないことで人物たちの感情が読み取れないため逆にその行動に注視することが出来るのだろうか。

アザラシが撲殺される音と最後のシャルルが銃殺される音の鋭さ、静寂の中で尖らせるべき音がどれなのか意識されている。
(2022.10/21)

次回、哲学者セーレン・キルケゴール著
『死に至る病』における"絶望"と青年シャルルの漠然とした死への誘惑について___________

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