ネガティブ経験の意義

好きな事も得意な事もなく、それまでイヤイヤだがそれなりにやっていた事にも見切りをつけて失意のどん底、自暴自棄で無気力だった20才くらいの時、
両親に、進路が決まらないんだったら勉強して国家公務員になれと言われた事がある。

 
彼らがそれを推す理由は「安定職で、(家族ともども)他人に威張れるから」というだけの事だった。

私の適性や心身状態を正しく見積もっての事ではない。そんな事は彼らにはできない。

また社会のアッパーミドル層に縁のない彼らが、国家公務員の実態を知っている訳もなかった。
彼らの日頃の言動から察するに、妬み混じりに、低学歴な自分らとは違って高給取りで体裁が良く定時で帰れるズルい稼業、くらいにしか思っていなかったように思う。

それだけでも公務員の方々にとんでもなく失礼で不見識な話だが、
またそういう、自分がした事のない努力をしている計り知れない人達に下から目線で憎悪を向けながら、子どもにはそちら側に行け、というのも色々と闇の深い発想で、
あの頃私の周囲にいた大人たちの荒んだ価値観や低いリテラシー、そこまでにそれを作り上げて来た社会状況を思い出すたびに、心底あの時代には戻りたくないと思う。

   
それはともかく、進路をはっきり決められない負い目から実際少しだけ公務員試験の勉強もしたのだが、まったく動機がなく、特に勉強ができる訳でもない私は、そんな難しい試験勉強はまったく進まなかった。
もちろん親には責められる。
 
 
色々と面倒になって、よりいっそう自虐的になって来た私は、
いっそやりたくもない勉強を自傷的にがむしゃらにやって本当に受かり、祝い膳を用意して待つ彼らのもとに帰らずその日の内に死んでやったら彼らも理解するだろうか、などと考えたりもしたが、

すぐに、
そこまでしても彼らには何が起こったのかわからないだろうから無駄だし、
そもそもわかってもらう必要もない、という事に気がついた。

 
彼らが私を理解する義務もない。
あの人達とだいぶ世界線が違うのは物心ついた時からわかっていたし、
私の人生なのだから、何を言われても、わかってもらえなくても、とりあえず私にはできないと筋を通して断るのがまず私の責任だろう。

死んでわからせようかと思ったのは、私の場合「わかって欲しいから」ですらなく、ひとえに「説明が面倒だから」でしかない。
いくらしんどくても、それに死を用いるのはあまりに乱暴だ。

 
それに、その頃はまだこの世から自分が消滅する事が怖かったし、
死ぬチャンスが一度だけならもっと有意義な使い方があるのではないか、そして死が利用できるならそれ以前に生にもきっと利用価値があるのだろう、と思い至った。

 
当時は本当に何もかもつらかったし、今思い出しても愉快ではない出来事だが、
自分に子どもができてみると、役に立つのはむしろこういうネガティブな経験だったりする。

どうしてもらいたいかは人それぞれだが、やられてイヤな事って結構似ている事が多いからだ。
天国より地獄のほうが具体的にイメージしやすいのと同じなのだろう。
 
子どもに対して何かクリティカルな事をやってやろうとするより、
イヤな事や余計な事をやらない、邪魔しないという事のほうが真っ先に大事だと思う。

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