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「豊饒の海」と夏目漱石作品

三島由紀夫「豊饒の海」4部作の
「春の雪」の下敷きは「こころ」
「奔馬」の下敷きは「草枕」
「暁の寺」の下敷きは「三四郎」
「天人五衰」の下敷きは「明暗」
である。

「こころ」のKは私見では西郷である。三島も松枝清顕は薩摩系に設定している。「こころ」では西郷の恋はかなわない。「春の雪」では、瞬間的にかなう。しかし、最終的にはKと同じく若くして死ぬ。
「こころ」では先生は娘さんをKに取られそうになって焦って結婚を申し込む。「春の雪」では松枝は聡子を皇族に取られて俄然燃え上がりだす。

「奔馬」と「草枕」の関係については既に書いたので省略する。

「三四郎」の最大の工夫は、美禰子と里子の並列である。「暁の寺」の最大眼目はジンジャン姉妹の入れ替わりである。

「三四郎」にはオルノーコという植民地物語が紹介される。「暁の寺」では本多は東南アジアに出かけ、インドをめぐる。
「三四郎」は紙幣=銀行システムの物語である。「暁の寺」では本多はインドで貨幣の神に魅入られ、日本でジンジャンの放尿(マネーバラマキを意味する)の夢を見る。

「明暗」は下層階級のドスト小林が津田を突き上げる。「天人五衰」は下層階級安永が上層の本多を突き上げる。「明暗」のラストは清子との再会だが、「天人五衰」のラストは聡子との再会である。

といって、「豊饒の海」は漱石作品のみを下敷きにしているわけではない。

「ニーベルングの指環」も下敷きだし、

「魔の山」も重要な下敷きである。

これはいうなれば、単なる物語ではなく、「物語の物語」である。物語を統合した物語である。となると「豊饒の海」の全容解明には、三島と同じかそれ以上の教養が必要になる。それは無理である。だから私も頑張る気にならない。

三島の漱石理解

夏目漱石作品は、十分研究されてきたが、それでもまだ研究が三島の読解水準に追いついていない。そのせいで豊饒の海と漱石の関連については全く見過ごされてきた。

以下感想だが、

「春の雪」の内容的に、三島はこころのKが、西郷隆盛だと読めている。つまり三島は確実に十分な読解をしている。本作は松枝(西郷)によって別ルートの日本が開かれたのでは、という願望の作品である。

「奔馬」が下敷きにした草枕は、漱石作品中屈指の密度である。特に視覚と聴覚の対立が際立っているのだが、奔馬にはその要素はない。これはつまり、三島は漱石ほどは視覚と聴覚の対立がなかった、それほど視覚の強い人間だった、ということかもしれない。よって両者の対立を感じられなかった。もっとも読み取れなかったのではなく、単に物語構成の上で省略しただけかもしれない。テロにより日本が改造されていればどうなっていたか、というこれも願望の作品である。

「暁の寺」の下敷きの三四郎も、極めて密度の高い作品である。実は三島は少々持て余し気味である。美禰子が富士山とは読めている。金融システム論は書かれていないが、「指環」が登場するので欠落ではない。東南アジアへの進出という、太平洋戦争の夢と願望が作品化している。

「天人五衰」の下敷きの明暗は、階級問題を克服する(あるいはしようとする)話だが、非常に上手に対応できていると思う。明暗では勤勉じいさんの存在がポイントになる、はずなのだが、本多はラストで、軽便鉄道を自力で押す爺さんのごとく、老体に鞭打って月修寺の石段を登る。不労所得でダラけきった人物が蘇るのである。ダラけきった日本だが、(一度死んでも)元の勤勉な姿に甦りたいという願望を示している。

全体では日本が歩めたはずの別の選択肢を示している。それらは夢であって実現しなかったが、仏教的三千世界のどこかでは、実現しているかもしれない。逆に言えば、やり直せる。やり直したい。漱石が明治から大正にかけて示した日本の別の選択肢を、十分理解し、よりリアルに描いて、未来への希望を述べているのである。

三島は「こころ」「草枕」「三四郎」「明暗」いずれも、極めて深く理解できている。章立て表を作って網羅的に把握すれば理解できて当然だが、彼は漱石を、読んだだけで読解できた。江藤淳などの(鋭い感覚を持っていることは認めるが)たいして読めていない漱石評論なども目にしただろう。自分の作品を、読めないまま論評している文章も目にしただろう。よくぞその孤独に耐えられたなと思う。世間の漱石理解力から類推するに、自分の作品が理解してもらえる可能性は、ほとんど無いことが分かっていたはずである。それでも三島は努力できた。正当な評価をされないことが確実であっても、正当な努力をし続けた。尊敬に値する。


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