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老けた高校生の民主主義考①

 今日は衆議院議員選挙の投票日。特に政権選択の選挙である衆院選の投票日は、民主主義国家である日本にとって極めて重要な日だと言える。しかし、実際には今、投票率がとても低く、日本の民主主義は課題を抱えている。さて、今日の投票率はどうなるのか。非常に気になるところだ。

 そんな今日、改めて民主主義について考えている。私が今通っている学校には課題として卒論があり、私は「新・デモクラシーの作り方」という壮大なタイトルの下、民主主義について60枚の論文を書いた。それを久しぶりに掘り出して、多少の再考を加えながら日本の民主主義の課題について考えてみようと思う。長い話になりそうなので、いくつかに分けてシリーズにしようと思う。

 ややこしい話なので沢山の人に読んでもらえるとは正直期待していない(笑)。ただ、どこかにこういう話が好きな同志がいて、反論したり更に議論を発展させてくれたら嬉しい。

第一章 民主主義は時代遅れか

1.民主主義の定義と歴史的考察

 まず、民主主義とはいかなるものか定義しておこう。民主主義(Democracy)の語源はギリシャ語のデモスクラートス、すなわち人民による支配である。辞書でその定義を調べると「人民が主権を持ち、自民の意志をもとにして政治を行う主義(新明解国語辞典)」という事になる。その形態は直接民主制と間接民主制に大別でき、直接民主制においては人民が直接意思決定を行い、間接民主制においては人民によって選ばれた代表が意思決定を行う。

 いずれの場合においても共通して言えることは、民主主義においては統治者と被統治者が同一であるということである。直接民主制においてはこの原則がはっきりと体現される。統治の対象となる人民自身が、自分たちで決めたルールで自分たちを統治することになるのだ。間接民主制においては少し複雑になるが、この原則は守られている。法律を制定し、それを実行して統治をおこなうのは国会議員や総理を初め、各大臣などだが、彼らの権力の源泉は主権者である国民からの信託である。その意味において、非統治者と統治者が同一との原則が守られていると言えるのだ。

 制度の外形としては以上のような事がいえるのだが、果たして選挙によって代表が選ばれ、政治を行っているだけで民主主義が成立しているという事ができるのだろうか。そのように捉えることも可能だろうが、私はそう考えない。私は民主主義の本質的目標は個人の尊重にあると考えており、それに向けた取り組みがなされていない限り、民主主義は成立しないと考えている。

 この主張は民主主義の成立過程の考察に基づく。民主主義が産声を上げたのは古代ギリシャであった。古代ギリシャにおける民主主義は直接民主制であり、ここまでに述べた要件を満たす政治制度であった。

 だがその後民主主義は長らく世の中から姿を消す。18~19世紀になってヨーロッパで再登場した民主主義は間接民主制という形をとった。また、そこに更なる理念を担いだものになっていた。すなわち、啓蒙思想を土台とする政治思想となっていたのである。啓蒙とは英語のenlightenmentを語源とする言葉であり、「豪い(くらい)場所を光で啓かせる(ひらかせる)」という意味を持つ。すなわち、旧来の王政やキリスト教的価値観から脱却し、理性や合理的な知で世の中を動かしていこうという思想である。

 またこの中で生まれた自然権思想も重要である。自然権思想とは、人間は生まれながらにして自由、かつ平等であり、生来の権利、自然権を有しているとする考え方である。従来、王という生まれながらにして特別な存在を支配者とした王制に対し、全ての人民が平等であり、権利を有するとした自然権思想は、民主制を求める人々の思想的な後押しとなる。

 また、自然権思想と同時期に社会契約説も生まれている。社会契約説は国家の成立の起源を人々の相互の契約に求める。人々は自分たちの権利を守るために、契約によって社会、国家を作り出すとする考え方なのだ。統治権の成立の根拠を被統治者の合意に求めるという点で、非常に画期的な思想であった。

 このように王権やカトリック教会といった従来の体制からの脱却を求める動きの中で、民主主義はその手段として導入された。構成員の基礎単位を個人とし、各々の自由と権利を守る社会を作ろうと考えた時、それまでに存在した政治体制の中で最も適していたのが民主主義だったのである。

 なぜ民主主義が数ある政治体制の中で、自由や人権を守ることに最も資する政治体制だという事ができるのだろうか。民主主義が誕生する以前の政治制度が保障する権利について考えてみよう。民主主義が誕生する前、政治制度の主流は、王政や貴族政であった。これらの政治制度の下では、国王や一部の貴族など、国民全体から見れば極少数の人々が、国家の最終意思決定権である主権を持つ。主権はその性質上、国内に存在するその他の全ての権利を超越する。(後で詳しく述べるが、近代国家においては多くの場合、立憲主義をとっており、憲法を制定することで主権の行使主体である国家権力に制限を与えている。しかし、立憲主義の発達していなかった当時は、統治者の持つ主権は、他の国内の権力をすべて超越できたと想定できる。)従って、主権者の意思によって、その他の人々の権利をすべて制約することができたのである。しかし、民主主義においては主権者を全ての国民とする。権力を分割することにより、多数の人々の権利が保障される可能性が高まるのだ。

 実際、近代民主主義が誕生した18~19世紀のヨーロッパでは、王政による生活の圧迫が市民の反発を呼んでいたという事実がある。税の引き上げによりパンの値段が高騰し、下層の市民は生活に苦しんだ。また、商人層からは、一生懸命稼いでもその多くが税として王や貴族に吸い取られていくことへの強い反発があった。これらの不満が民主主義を生んだことから見ても、民主主義の本質的目標が個人の尊重にあるという事ができるのではないだろうか。

 以上のような、個人の尊重を本質的目標とする民主主義の事を、社会学・政治学では一般的に「リベラルデモクラシー」と称する。本稿における民主主義はこの「リベラルデモクラシー」の事を指す。

2.民主主義を補完する立憲主義

 一方で「リベラル・デモクラシー」は、多数派による少数派の抑圧という「個人の尊重」とは相反する状態を生む可能性を秘めている。この可能性をできる限り排除し、個人の尊重という本質的目標達成を図るため、人類は立憲主義というシステムを構築した。

 立憲主義とは、憲法を制定することで権力者を統制し、国民の権利保障を担保するものである。憲法はたった 1 人の為に、背後に何 10 万という国民の票を持った国会議員による多数決を覆すことができるのだ。そして立憲主義とは、自然権思想を土台として生まれた考え方でもある。その先駆けは、1215 年にイギリスで制定されたマグナカルタである。マグナカルタは貴族や聖職者の既得権益を守るために、国王の財政権、刑罰権に制限をかけることを目的として制定された。国民の自由を担保することを目的とする近代憲法の目的とはまだ隔たりがあるものの、初めて王権に制限を設けたという意味で、近代憲法の先駆けとなっている。その後、ジョン・ロック、モンテスキュー、ジャン=ジャック・ルソー等、啓蒙思想家たちの手により、立憲主義はだんだんと形作られていく。

 さて、国家権力に制限をかける存在として生まれた立憲主義だが、民主主義国家においては統治者と被統治者が同一であるが故に、国民が憲法を制定することにより、国民自身の力を制限する、という状況が発生する。先ほども述べたように、民主主義は多数派の暴走により、少数者の権利を侵害する可能性を秘めている。そのような状況が生まれてしまっては、個人の権利の保障を本質的目標とする民主主義は内側から崩壊することになってしまう。そこで、民主主義に基づき多数の支持を得たとしても犯すことのできない権利を憲法によって保証し、多数派の力に制限をかけるというのが、民主主義国家においての立憲主義の考え方なのだ。

 以上のようなことから見ても、「個人の尊重」を本質的な目標として掲げる民主主義を語る上で、憲法や、それが保障する自由や人権という概念を切り離すことはできない。

 以上の事から近代民主主義は「個人の尊重」を本質的目標にしており、それを補完するシステムとしての立憲主義と密接不可避であるという事ができる。

3.民主主義の成立条件

 ここまで述べてきたことから、民主主義が成立するための必要条件を考えてみよう。私は以下の4点が民主主義に成立条件であると考えている。

 第 1 に、その社会の構成員の多くが(理想としては全員が)政治に参与することである。民主主義の権利保護のスキームは、主権の分割による一部の人間による権力乱用の回避である。構成員全員に権利を分割したとしても、その一部しか自分の持つ投票を行使しない状況では、結局は権力が少数の人間によって掌握されることになり、民主主義のスキームは崩壊する。

 第 2 に、自由に意見が発表され、構成員が自らの意思決定に対し外的圧力を一切受けない状況が必要である。制度の外形上は構成員 1 人 1 人が主権を持っていたとしても、その行使に対し、何者かによる圧力が働いている状況が生まれると、本質的には少数の権力者による統治と同じになってしまうからだ。

 第 3 に、意思決定過程において十分な議論がなされ、反対派・賛成派の間に相互理解がなされることである。多くの場合、「反対派・賛成派との関係」は、「少数派と多数派との関係」と言い換えることができる。民主主義は「個人の尊重」を本質的目標とする政治制度なのだから、少数派の意見も常に尊重されなくてはいけない。最終的な意思決定場面において意見が対立するとしても、そこに至るまでの経過の中で、相互に理解し、多数派は少数派の意見の中に取り入れるべきと考えられるものがあれば、積極的に取り入れることが望ましい。

 第 4 に、いかなる権力であれ決して奪ってはいけない基本的権利の保護を、制度的に担保することである。多数派は常に少数派の権利を蹂躙する恐れがある。それを回避し、少数派であっても基本的権利が保護される制度を作らなくては、「個人の尊重」という本質的目標が見失われる可能性が常にある。これらの 4 つの条件がそろって初めて、本論文で定義するところの「民主主義」は成立すると私は考える。


                     (続く・・・)


参考文献(シリーズ共通):

『民主主義 』    文部省著作教科書    文部省 角川ソフィア文庫
『詳説 世界史 』  木村靖二 ・岸本美緒・ 小松久雄   山川出版社
『日本国憲法の論点 』 伊藤真              トランスビュー
『アフター・リベラル 』    吉田徹        講談社
『リベラルの敵はリベラルにあり』   倉持麟太郎      筑摩書房
『民主主義という不思議な仕組み 』   佐々木毅       筑摩書房
『GLOBE』       通巻 234 号               朝日新聞社
『熟議民主主義ハンドブック 』ジョン・ギャスティル他      現代人分社
『セレクト六法  』             岩波書店
『直接民主制の論点 』      山岡 規雄        国立国会図書館
『代表制民主主義と直接民主主義の間』    五野井 郁夫   社会科学ジャーナル
『日本の思想 』         丸山眞男       岩波書

内閣府「子供・若者の意識に関する調査」        2019 年実施
NHK「日本人の意識」調査                                  2018 年実施
言論 NPO「日本の政治・民主主義に関する世論調査」   2018 年実施
倉持麟太郎「このクソ素晴らしき世界」presented by #8bitNews #8 日本国憲法のアイデンティティ?~与野党の憲法論議に決定的に欠けているもの

倉持麟太郎「このクソ素晴らしき世界」presented by #8bitNews #6 コロナ禍における憲法の実践とは? 横大道聡(慶応大学法科大学院教授)氏と議論

スイスの直接民主主義 制作:swissinfo.ch、協力:在外スイス人協会


 

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