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鬱で死なない(後編)

(今回は「鬱で死なない」の後編ですが、それぞれ独立した話になっているので、こちらから読んでいただいても大丈夫です。前編はこちら

こんにちは。前回予告した通り、今回は私自身の鬱がどういうふうに感じられるのか、できる限り分析してみようと思います。今回は少しややこしく、観念的になりますが、お付き合いいただければ幸いです。




鬱の閉ざされた思考

鬱のとき私の意識の中で起こっていることをもう少し詳しく分析してみたいと思います。前提として、前回書いたのは、退屈が鬱になる、ということでした。しかし、これはちょっと言い切り過ぎで語弊のある表現かな、という気がしてきました。なので違った表現をしておくと、なにも興味を惹かれるものがなく、気晴らしができない状態の時に鬱になる、と考えてください。

(さらに補足です。落ち込むような出来事があった場合や、自己否定的な感情が続いている場合も、あたりまえですが鬱になります。そのとき、自分の外部の対象に意識や興味を向けることができなくなっているという点で、退屈しているときと同じような状態になっているのです。外部に原因がある場合は、当然ですがその原因に対処しなければ鬱は治りません。)

なにも興味を惹かれるものがない状態とはつまり現在の否認です。そのとき、私は自分の身の回りの現在に対する興味を失っているので、必然的に頭の中にいろいろな思考や観念が浮かびあがってきます。


思考とは常に「なにかについての」思考です。来週のデートの予定を考えたり、以前読んだ本のことを考えたり、社会問題について考えたり。人がなにかを考えているとき、思考対象が必ずあります。空っぽの思考、というものはありませんよね。

しかし、退屈で何にも興味を惹かれないとき、思考は必ず「自分」についての思考になります。自己についての様々な観念がつぎつぎと浮かび上がってくるのです。つまり、自己観察です。

このときよく、過去のトラウマのフラッシュバックが起こります。しかもそれは、トラウマを完全に克服するまで何度も繰り返すのです。このフラッシュバックも、鬱に関連する苦しさの一つであると言えるでしょう。
(トラウマとフラッシュバックの問題も、國分功一郎さんの著書の中で何度も言及されているテーマです。なぜフラッシュバックが起こるのかについては、長くなるので今回は掘り下げるのはやめておきます)


さて、問題は、このとき意識は自己の外部と完全に断絶しているということです。ふつう、人は色々な他者と関わり合いながら、周りの人と自分を比較することで、自分の思考や判断がおかしくないかどうか、客観的な正しさを確認しています。

しかし、自己に閉じこもった思考の中では、自分の正しさを担保する根拠がどこにもありません。すると、自分が考えていることが正しいのかどうかわからなくなって、さっきまで立っていた床が突然消えてしまって暗闇の中へ落ちていくような不安を感じ始めます。

しかし思考は止まりません。例えば、なにか過去の大きな失敗のトラウマについての観念(フラッシュバック)が浮かび上がってきたとします。それは苦しい、考えたくないことです。しかしそれは私を捕らえて離しません。

私はそれから逃れたい。だから、なんとかそのトラウマと頭の中で戦います。あれはしょうがないことだったんだ、どうしようもなかったんだ、と自分に言い聞かせて、どうにかその傷を癒やして受け入れようとします。

そうだ、あれはしょうがないことだったんだ、もう気にしなくていいんだ、とほっと一息ついた瞬間に、「本当か?」と上から声が聞こえます。

その瞬間、「あのトラウマはしょうがないことだったんだから、もう気にしなくていい」という結論は、単なるひとつの意見、あるいは観念にすぎなくなります。そしていつの間にか、私はその観念を「本当か?」と疑う側の私になっているのです。



狩り立て——内部と外部の時間のズレ

なにかひとつの観念について、結論を出します。その瞬間だけは、結論は完璧なものに思えているはずです。しかし次の瞬間には、私はもうその結論を出した私ではなくなっていて、それを疑う私になっているのです。

そこでは自己の切断が起こっています。結論を出した私から、それを疑う私へ。そして改めて考え直して、もう一度結論を出すと、また別の私がそれを斜めから見ていて、違うことを言い出します。

そうやって延々と、断絶と別の私への移動が繰り返され、結論はいつまで経っても出ません。自己の殻に閉じこもっているせいで、他者と自分を照らし合わせて客観的に判断することができないため、なにを根拠に正しいと判断すればいいのか、その足場がどこにもなくなってしまっているからです。

すると、思考は答えを探して何度も何度も切断とメタ化を繰り返します。それはとにかく苛烈に、凄惨に、頭の中をぐちゃぐちゃに引っ掻き回すように、縦横無尽に肯定と否定が繰り返されます。ものすごいスピードで。

それなのに、部屋の時計を見ると、さっき見たときからまだ15分しか経っていないのです。このとき、自分の内部の時間と外部の時間にズレが生じます。

頭の中がぐちゃぐちゃに思考が分裂しているのはなぜだったか、その最初の原因を思い出してください。退屈だったからです。それで、私はいつのまにか鬱になり、ものすごいスピードで、つまり体感としてはものすごく長い間、自分の思考に引き裂かれる苦しみを味わいました。しかし我に返ってみれば、現実の時間はちっとも進んでおらず、なおも退屈はちっとも解消されていません。そのことに絶望してそしてまた鬱へ落ちていきます。それが無限に続くようにさえ感じられるのです。


このような状態をカフカは「狩り立て」と呼びました。彼もこの時間のズレに引き裂かれそうになる苦しみを味わっていたのです。


崩壊、眠ることの不可能、覚醒していることの不可能、生の不可能、より精確に言えば、生の相次ぐ出来事に耐えることの不可能。二つの時計は一致しなくなってしまっている。内部の時計は悪魔のようなあるいは鬼のような、いずれにしても非人間的な仕方で狩り立て、外部の時計は、つっかえながらいつものペースで進む。この二つの別々な世界は分裂する以外ないだろう。そして両者は分裂する、あるいは互いに引き裂き合う。それもずたずたに。内部の進行の過激さにはいくつもの理由が考えられるが、もっとも目立つものは自己観察だ。それはいかなる表象も落ち着かせず、どれもこれも狩り立て、結局自らもふたたび表象へと新たなる自己観察によってさらに狩り立てられることになる。

『全集』第七巻『日記』谷口茂訳(太字強調は筆者)


太字部分が少しわかりづらいので、別の訳を見てみましょう。以下は竹中克英さんの訳です。

内部の進行の狂暴さには、いろいろな理由があるかもしれない。一番はっきりしている理由は、自己観察である。これはいかなる観念をも休ませることなく、ことごとく狩り立て、それ自身がまた観念として、新たな自己観察によってさらに狩り立てられるという結果になる。

竹中克英さんHP掲載 インゲボルク・ヘネル著「『断食芸人』論」竹中克英訳より
引用部分を孫引き


こちらの訳だとわかりやすいですね。ひとつの観念を狩り立て、その結果がまた一つの観念となり、駆り立てられる。それがズレた時間の中でいつまでも続くというカオスに、私はどんどん疲弊していくのです。そうなるとさらに自己否定的な観念が頭の中を占めるようになり、それをコントロールすることもできず、自分の思考に引き裂かれているような苦しさを味わうことになります。

無限にさえ感じる長い苦しみの中で、ふと、あるひとつの疑問が浮かびます。「私は狂っているのではないか?」という問いです。それは自己観察が最後に行き着くところです。



無限の狂気

そんなことはない、私は狂っていない、と否定したいので、私は必死にそう言える根拠を探します。しかしそれはなかなか見つけられません。でも、最後にようやく私はひとつのかすかな希望の光を見つけます。

それは、私が「私は狂っているのではないか?」と疑っていること自体が、自分を客観的に捉えようとしている証拠であり、それこそが私が正常である証明なのだ、という結論です。本当に狂っている者は「私は狂っているのではないか?」と疑ったりしないはずですから。


よかった、これで一安心。とはなりません。ここで結論を出したが最後、それはすぐにまた観念の一つにすぎなくなり、狩り立てられることになるからです。

「いや、それほど簡単に自分は狂っていないと結論を出すということは、やはりおまえは狂っているのではないか? 狂人は決まって『私は狂っていない』と言うものだ」と、いつの間にか私はかつての私を狩り立ていて、しかし同時に狩り立てられているのは依然として私なのです。

私は被告であり弁護人であり検事でもあるのです。そしてその立場が目まぐるしく順番に入れ替わり続けます。最後の判決を出す裁判官はいません。

やがて、無限に続くループがひとつの「観念」であることに私は気がつきます。そしてそれがまた狩り立てられます。無限が観念に織り込まれ、それがまた無限に駆り立てられ、その無限がまたひとつの観念に……と、無限の中に無限が折りたたまれたものが無限に続く、無限の狂気の中へ落ちていきます。

そしてまた、はっと我に返ったように、こう思うのです。「やっぱり私は狂っているんじゃないか?」

このループは本当に出口のない繰り返しです。どこまで辿って行っても最終的な答えを出すための根拠が見つかりません。他者から隔絶された自己の殻の中に、確かなものはなにひとつありません。

しかし、実はただ一つだけ、私の中に絶対的に確かなものがあります。

それは「死」です。死は絶対的な虚無です。私の内部で発見できるものの中で、唯一確かなもの。絶対的な無意味。

そして私もいずれそこへ行くのです。私がいつか死ぬということ。気づいてしまった今は、そのことだけが、はっきりと確かに感じられるのです。



虚無へ

ニーチェは「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」と言いました。その言葉の意味が、この瞬間にわかります。見られているのです。

虚無に見つめられると、自分の体の中が空っぽになってしまったかのように、一滴の気力すら湧かなくなって、なにも出来なくなります。生きていること、あらゆることが無意味に感じて、体も感情も動かなくなってしまうのです。

無意味であることの虚しさ。存在の空虚さ。そのとき私は、こう問いかけられているように感じます。「世界と死と、お前に優しいのはどちらか?」と。

虚無が私に語りかけます。「世界は無意味なのに、いつまでも続くから苦しいのだ。私のもとに来れば楽になる。お前も、生まれる前は無だったのだ。そしてまた、無へと帰っていくだけだ。そこがお前の安寧の故郷なのだ。お前の生まれた場所へ、母のもとへ、帰っておいで」

そうやって死は私を誘惑します。一対一で死とディベートしても絶対に勝てません。そして私はだんだん、世界よりも死のほうが優しいではないか、と思い込んでしまいそうになるのです。


虚無へ帰ること。それは、私が生きていたことも、いま考えていることも、なにもかもいずれ無に帰すということを意味します。その意味では、死は存在の根拠ではなく、絶対的無意味の根拠です。

だから私はそこにたどり着くわけには行きません。世界に突然ぽっかりと空いたその大きな穴から、私はできるだけ遠ざかろうとします。しかしブラックホールに引きずり込まれるように、ぐるぐると螺旋を描きながら、私はどんどんそちらへ落ちて行くのです。

その間も苛烈な狩り立てが進行し、外部の時間はのろのろとしか進みません。私は本当に無限に感じるほど長い苦しみを味わっていて、この先も無限に終わらないように感じていて、それならば、終わらせたほうが、よっぽど楽なのではないか、という「最後の観念」に負けそうになります。



鬱のどん底で出会う他者

ここまで書いたことは、私が一番深いところまで落ちたときに経験したことです。私はそのとき、ほとんど死を受け入れかけていました。

しかしその寸前で、急に恐怖が湧き上がってきて、パニックになりました。心臓が爆発するかと思うほど脈打っていて、そのせいでまた「死ぬんじゃないか」と取り乱しました。

私は震える手を必死に抑えながらiPhoneを操作して、恋人に電話をしました。そのとき、私は人生で初めて「助けて」と声に出して言いました。

恋人はすぐに来てくれました。そして私の体をさすってくれて、大丈夫だよ、愛しているよ、と言ってくれました。

私はこのときほど、世界に存在するのが私ひとりだけでなくてよかった、他の誰かのあたたかな肉体や、声や、言葉があって、本当に良かった、と安堵したことはありません。

なぜこの人は、私にこんなふうに優しくしてくれるのだろう、と私は思いました。それは、愛があるからだよ、と恋人は言いました。

愛?

なぜ?

頭の奥の方に、その「愛」という観念を狩り立てようとしている狩人の気配を感じました。そこには根拠なんかないじゃないか、愛なんて無意味だ、と。

でも、その狩人はやってきませんでした。

私はもう、退屈じゃなかったからです。恋人の手や、声色や、選ぶ言葉、表情、そのすべてが、驚くほど確かに存在していて、予測不可能で、ただそこにあって、私はその人に、すごく興味を惹かれていたからです。

愛は無根拠だし、無意味でした。でもそんなことはどうでもいいんです。愛はどこまでも興味深いから。死も無意味もどうでもよくしてくれて、私を退屈から救ってくれるから!

私はそのとき初めて他者と出会ったのだと感じました。そして、私の内部の時間と外部の時間は一致したのです。



世界はたまたまこうなっている

涙が涸れるまで泣いたあとで、こう思いました。「助けて」と言ったときに助けに来てくれる人がたまたま私にはいた。もしもそうでなかったら、恋人がいなかったら、私はどうなっていただろう、と。

誰にも助けを求められずに死んでいった人たちが世界にはたくさんいることを思いました。そうした人たちを差し置いて、自分だけたまたま愛に救われたことに、後ろめたさを感じました。

たまたま、ということがなぜか私には大事なことのように思われました。たまたま出会ったこと。袖触れ合うも他生の縁、という言葉を思い出します。

この世界がこうなっているのは、なにもかも、たまたまでしかないのです。あの穴の向こうには、気が狂いそうなくらい無限に続く無意味のひろがりがあって、でも現実はなぜかこうなっている。そのことの、わけがわからないほどの、奇跡!

あ、そうか。と私は思いました。たまたま出会った人を愛せるかどうか、でしかないんだな。

私は今まで部屋に閉じこもっていたのが馬鹿らしくなりました。なんでもっと色んな友達に会って、伝えなかったんだろう。

愛とはつまり、存在の肯定です。たまたま出会った他者を、私はどれだけ肯定できるだろう。あなたと知り会えたことの偶然性が奇跡だということ。あなたがいることが、奇跡だということ。こんなにも驚くべきことを、私は今まで見落としていたなんて。


さて、しかし問題あります。それは、愛と恋を区別することの難しさ、という話なのですが、それについて語りだすともはや鬱とは関係がなくなってしまいます。ということで、今回はこのあたりで、坂口安吾のこの言葉を引いて、おわりといたします。


苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。

坂口安吾「恋愛論」

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