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なぜ傷つくとわかっていても求めてしまうのか——トラウマと執着

(傷だらけの恋愛論 第六回)



今回はこの「傷だらけの恋愛論」の山場なので、ちょっと長めです。



トラウマとはなにか

今回はトラウマの話です。トラウマとは日本語で「心的外傷」とも呼ばれ、個人で対処できないほど圧倒的な体験によってもたらされる心の傷のことを指します。

トラウマの記憶はフラッシュバックと呼ばれる症状をよく引き起こします。普通に生活している時に突然その苦痛の記憶が蘇ってきたり、悪夢として何度もその場面が反復されるのです。

特に暴力や災害など、死に直面するような出来事によって深い心の傷を負った方は、トラウマによる強いストレス症状によって日常生活に支障をきたすようになることもあります(PTSD / 心的外傷後ストレス障害)。


死に直面するような出来事、とまではいかなくても、誰もがトラウマとなるような経験をしたことがあるはずです。第一回では「心の穴」の話をしましたが、それも幼少期に受けたトラウマによって作られるものでした。

また、恋愛においても、多くの人が傷を経験します。その中には、簡単には立ち直れないような恋のトラウマを経験し、長い間その苦しさから抜け出せなかったという人も少なからずいるでしょう。

ここで疑問に思うのは、傷つくようなことは生きていれば何度もあるけれど、そのすべてがトラウマになるわけではないのはなぜか、ということです。言い換えると、トラウマになる傷とならない傷の違いはなんなのか


哲学者の國分功一郎さんは「傷と運命」という論考の中で次のように述べています。

トラウマを残すような出来事の知覚や記憶は、決して特殊なものではないことが分かる。いかなる経験もサリエントである以上、トラウマとなる可能性をもっている。そして、予測をあまりにも大きく侵害する場合に、それはトラウマになる。「トラウマ」はもともとギリシャ語で「傷」を意味する(τραύμα)。あらゆる経験はサリエントであり、多少ともトラウマ的であるとすれば、あらゆる経験は傷を残すのであり、記憶とはその傷跡だと考えられる。絶えずサリエンシーに慣れようとしながら生きている我々は傷だらけである。いや、より正確に言えば、傷跡だらけである。

「傷と運命」國分功一郎
『暇と退屈の倫理学』(太田出版)所収

用語の説明をしておきます。「サリエント」とは、ある経験に慣れていないため刺激が強いということを指す言葉です。その経験は私にとって未知で刺激的である、ということを意味します。「サリエンシー」はその名詞形で、「その刺激にどれくらい慣れていないかの度合い」を意味しています。

ここで言われているのは、傷を負ったときにトラウマとなるかどうかを隔てているのは、傷の深さが予測を大幅に上回ったかどうかだ、ということです。


ここで第二回を振り返っておくと、恋は予測していなかった他者が現れ、私の予測可能な世界にヒビが入ることによって始まるのでした。それはつまり、サリエントな他者が現れたとき、恋に落ちる可能性が生まれるのだと言いかえることができます。

ということは、あらゆる恋は傷なのです。そして、恋が予測を大きく侵害するような傷を残したとき、それもまたトラウマとなります。


さて、ここからが本題です。トラウマはしばしば、性的倒錯執着を引き起こします。過去に自分に傷をつけた人と同じような属性の人に惹かれることや、トラウマを想起させるようなものにフェティシズムを感じてしまうということがあるのです。

それは第一回で述べた「心に空いた穴から欲望が湧き出てくる」ということとも通底していると思います。そこで今回は、なぜそのようなことが起こってしまうのか、つきとめてみたいと思います。



恋の病とトラウマは似ている

先ほども述べたように、恋は予測外の他者が現れ、私の予測可能な世界にヒビが入ることによって始まります。

世界にヒビが入っている状態というのはつまり、自分が認知している世界に予測不可能で未解決のものが残っている状態です。恋に落ちると感情が昂ぶってコントロールできなくなります。それを解決するには、相手のことをもっと理解して、ヒビを修復しなければなりません。そのために「知りたい」という気持ちが芽生え、その人のことばかり考えてしまうようになるのです。

しかし関係性が思うように進展せず、その欲求が解消されないまま残り続けると、恋の病になってしまいます。すると、いつまでもその未解決のことが頭から離れず、目に映るいろいろなものを恋と結びつけて、そこからサインを読み解こうとしてしまう、というのが第二回の要点でした。


さて、トラウマに苦しんでいる状態は、この恋の病の状況と酷似しています。というか、この二つはおそらく共通の原理による産物なのです。

先ほど確認したように、傷の大きさが予測をあまりにも大きく侵害する場合に、それはトラウマになるのでした。予測を大きく上回る、というところがポイントです。そのとき、傷ついた私は経験したことのない大きなショックを受け、取り乱します。自分が受けた傷の大きさを受け止めきれず、感情をコントロールできなくなるのです。

そして、それを解決したいと思うのですが、解決方法がわかりません。だから頭からそのことがずっと離れず、根本の原因となった事件のことを何度も思い出してしまいます。つまり、世界に入ったヒビを修復する方法を突き止めることができず、自分の感情をコントロールできない状態が続いているのです。

この状況が構造的に、恋の病とまったく同じであることがお分かりいただけるでしょうか。これを恋の病になぞらえて、傷の病と呼んでみることにします。

傷の病になっても、時間が経つとともに精神は安静を少しずつ取り戻していきます。しかし、原因の傷は消えないので、傷の病はいきなり解決するわけではありません。ただ、少しずつ忘れていくだけなのです。



フラッシュバックと傷跡

人間は記憶をいきなり消すことはできません。ときにはそういったことも起こるのですが、そうなるとまた別の様々な不都合を生むので、健忘症という病気として扱われています。傷ついた記憶は、少しずつ忘れるしかないのです。

フラッシュバックという症状は、傷ついた記憶が後になってから鮮明に蘇ってくる現象として理解されていますが、これは少し捉え方が違うように思います。忘れている時間が少しずつ増えているだけなのです。自分の感情をコントロールできる時間が少しずつ増えている、と言ってもいいかもしれません。

つまり、傷が癒えたわけではない以上、本当は忘れておらず、傷の病の中にまだ取り残されているのだけれど、他の物事で気を紛らすことができる時間が増えている状態である、ということです。退屈を感じたときにフラッシュバックが起きやすいのだというよりも、傷はずっと傷んでいて、退屈すると傷の病に引き戻されるので、他のなにかに熱中して気を紛らしているのです。


さらに時間が経てば、傷はふさがって傷跡になっていきます。では、どのようにして傷は傷跡になるのか? 

それは、他の傷をいくつも増やしていくことによって、ではないでしょうか。最初の傷がいくつもある傷の中のひとつに過ぎなくなったとき、それはもはや特別ではなくなり、予測可能な範囲内に落とし込めた、ということを意味するのではないかと思います。

しかし、長いあいだ忘れていて、もう傷跡になったと思っていたのに、ある日突然フラッシュバックが蘇ってきた、ということもあります。なんらかのトリガーによって、古傷が開いてしまうのです。

トリガーとは、傷ついた出来事やその当時の自分の精神状況を想起させてしまうような物事に出会うことを意味します。こうして傷の病が再発してしまうこともあるのです。



「恋の病」そのものがトラウマになるとき

恋の病とトラウマによる傷の病が似ているというのは先ほど述べた通りですが、さらに言えば、恋の病そのものがトラウマとしていつまでも残り続けることがあります。

恋愛で予測を越えて大きく傷ついた場合、時間が経つとともに他のもので気晴らしができるようになって非日常状態を抜け出しても、根本の傷が癒えていないとそれはトラウマとして残り続け、フラッシュバックのように恋の病が蘇ってきてしまうことがあるのです。

フラレた後も長いあいだ未練が残っている人は、このような状態にあると言えるでしょう。時間が経っても恋の病から完全に抜け出すことができず、他の物事で気晴らしをしていても、時々気を紛らすことができないときがきて、傷を作った過去の恋愛のことを思い出してしまうのです。

それは、その恋愛の傷がまだその人にとって完全には傷跡になっていない生傷だからです。傷跡にするためには、他の傷をたくさん作って、最初の傷を相対化しなければなりません。



痛みを消すためにより強い痛みを求める

このあたりでようやく、最初の問いに近づくことができます。過去に自分に傷をつけた人と同じような属性の人に惹かれたり、トラウマを想起させるようなものにフェティシズムを感じてしまうのはなぜか、というのが今回の疑問点でした。

それはおそらくこういうことではないでしょうか。

過去の恋愛の傷を想起させるような人や物に出会ったとき、それがトリガーとなって、傷が疼きます。つまり、その過去の恋愛の傷がまだ未解決であることを思い出してしまうのです。すると再び恋の病の状態に陥ります。

恋の病に陥ったら、それを解決するためにヒビを修復しようとする欲求が働きます。しかし、その意識が向かうべき、過去に私に傷をつけた張本人はとっくの昔にどこかへ行ってしまって、もう私の目の前にはいません。

だから、未だ癒えていない傷やヒビを修復したいという欲求は、根本的な原因に向かう代わりに、それを思い出させたトリガーへと向かいます。それは自分に傷をつけた張本人の代理です。それを自分のものにすることで、擬似的に自分に傷をつけた他者を克服し、傷を修復しようとしているのです。


しかし、欲望を代理で埋めようとしても、決して完全に埋めることはできません。すると、その失敗経験は新たな傷となります。

それが繰り返されていくことで、似たような傷がたくさん増えていくことになります。このようにして、自分を傷つけた人と似たタイプの人や、トラウマを想起させるものへの執着が生まれるのです。



『ハッピー・マニア』に学ぶ、モテ男に執着してしまう原因

とてもわかりやすいサンプルがあるので紹介します。安野モヨコさんの『ハッピー・マニア』という漫画作品です。


主人公の重田カヨコは「恋の暴走列車」という二つ名がつくほどの恋愛依存症です。彼女のすぐそばには、彼女のことを一途に思い続けている心優しい東大生というハイスペック男性、高橋くんがいるのですが、彼女は高橋くんに見向きもせずに、不倫関係とか、女たらしな男との恋といった、絶対に幸せになれるはずのない恋愛ばかりを求めてしまうのです。

なぜ彼女は傷つくとわかっていても、いつも似たような「モテ男」にばかり恋をしてしまうのか? それは「恋愛のトキメキ」が忘れられないからです。


恋愛のトキメキとは「恋の病」のときに経験する非日常的な精神状態のことに他なりません。好きな人のことを考えると胸が高鳴り、苦しくなる。でも、人はそれを心地よいとさえ感じます。なぜなら、それは退屈を紛らしてくれるからです。しかしそれがあまりにも続くと、苦しさが上回ってくる。だから恋の「病」と呼ばれるわけです。

モテ男と恋愛をすると、たいてい傷つきます。モテ男のところにはたくさん女性が集まってくるので、彼らは基本的に一人の女性を選ぼうとはせず、女性は都合よくもてあそばれることになります。そうして女性側には、モテ男によって作られた傷だけが残ります。

重田がモテ男を見るとすぐに恋愛感情が湧き上がってきてしまうのは、まだ完全には最初の傷が修復されておらず、恋の病が治っていないため、モテ男がトリガーとなって恋の病の症状が再発してしまうのだと考えることができます。彼女はそのようにして、似たような傷をいくつも作っていくのです。


ところで、先ほども軽く触れましたが、たくさん傷をつくることで、最初の傷はいくつもある傷の中のひとつにすぎなくなって、相対化されていくはずでした。しかし、彼女はいつまで経っても、似たような男性にばかりとらわれ続けていて、恋愛依存っぷりは一向に治る気配がありません。

それはなぜか。この「似たようなタイプばかり」というところが曲者です。なぜかというと、先ほどの説明と矛盾しているようですが、似たような経験を繰り返していると、その経験に慣れて刺激的ではなくなっていくため、より強い刺激を求めるようになることがあるのです。



痛みが快感に変わること

似た経験は何度も繰り返せば繰り返すほど、慣れて刺激が少なくなっていきます(サリエンシーが下がる)。このことについては、例えばリストカットという自傷行為を考えてみるとわかりやすいかもしれません。

リストカットは最初はたいてい、なにかの苦しみに囚われているときや、耐え難い退屈から逃れられないときに、気を紛らしてそれを忘れるために実行されます。そして最初はそれがかなりうまく機能するのです。

痛みは、一時的に苦しみや退屈を忘れさせてくれます。しかも、外傷によって痛みを感じるとき、脳内ではその痛みを抑えるため鎮静効果のあるエンドルフィンが放出されます。その相乗効果で、苦しさから解放される恍惚感を味わうことができるのです。

しかし時間が経てば、頭の中にはまた退屈や苦しみが渦巻き始めます。そしてもう一度リストカットをするのですが、何度も繰り返せば繰り返すほど、その経験は「前にも経験したことがある、もう知っているもの」になっていき、その刺激は薄れていきます。すると、頭の中の退屈や苦しさが消えなくなります。

そうなると今度は、以前と同じくらいの刺激を得るためには、前より深く手首を切らなければならなくなります。このようにして、自傷行為はエスカレートしていくのです。

このことからわかるのは、古い傷の痛みを消そうとするために、新しい傷を作ろうとするような方向へ欲求が向かうことがある、ということです。そしてそれがエスカレートしていく中で、刺激がない状態への極端な忌避感が生まれてきます。刺激がない状態は退屈であり、過去の傷の記憶が蘇ってきてしまうからです。

これはあらゆる依存症患者にあてはまる状態です。そして刺激がある状態をすなわち快と感じるようになるのですが、だんだんと、強い刺激でなければ快感を得られなくなっていきます。このようにして、痛みは快感に変わるのです。


さて、ここで重田カヨコの話に戻ると、似たようなタイプの男に出会うたびに恋の病が再発し、そのたびに似たような傷をいくつも増やしていく彼女は、確かに「最初の傷」に囚われてるわけではないように見えます。つまり最初の傷は目立たなくなるのですが、その代わりに似たような、より深い傷がたくさん増えているのです。

先ほど、最初の傷がいくつもある傷の中のひとつに過ぎなくなったとき、それはもはや特別ではなくなり、予測可能な範囲内に落とし込めたということを意味すると書きました。しかしこの状況は奇妙です。

彼女はもはや、最初の傷そのものには囚われていないのにも関わらず、最初の傷によって規定された欲望にいつまでも囚われていて、新たな傷を作っては、その痛みを忘れるためにまた新しい似たような傷を作る、というループから抜け出せなくなっているのです。これはまさにリストカットに依存して辞められなくなっているのとそっくりな状況です。

傷をたくさん作って相対化すれば、傷の病は消えて傷跡になるはずなのに、なぜこのようなことが起こってしまうのでしょうか。



傷と運命

傷をたくさん作ることによって、最初の傷が数ある中のひとつに過ぎなくなるはずなのに、気づけば最初の傷によって規定された、似たような傷ばかりいくつも刻まれている。

つまりこういうことです。最初に受けた傷を忘れるために、自分でもう一度その傷を再現する。同じショックでもう一度自分を打ちのめして、過去を忘れ去ろうとするのです。しかし忘れられるのはほんの一瞬で、再び傷は蘇ってくる。だから何度も何度も繰り返す。繰り返しているうちに、いつの間にか最初の傷のことは忘れているのです。でも今となっては、なぜ同じことを延々と繰り返しているのかもわからないまま、それをずっとやめられずにいる。

最初の傷自体はもう忘れてしまっていても、結局、欲望はどこまでも最初の傷によって運命づけられているように見えます。それが心の穴によって欲望が規定される、ということなのでしょうか。

そして、これは確信をもって書くわけではないのですが、何度も繰り返し自らを傷つけることで最初の傷を忘れてしまった人は、今度はなぜ自分がそれを繰り返し続けているのかを思い出すために、また同じ傷を求めようとするのではないかと思っています。なぜ自分は似たような男にばかり惹かれてしまうのだろう、と悩みながら恋愛を求め続けた重田カヨコのように。


このようなことが起こってしまう理由は、人が何か知らない現象に出会ったとき、再現性を確認することによって、それを理解しようとすることと関係があります。同じ現象を繰り返し体験することで、それに慣れようとするのです。

同じ現象を繰り返し体験することでそれがサリエントでなくなっていくとは、具体的にはどういうことなのか? /環境やモノの中には、「こうすると、こういうことが起こる」という反復構造が存在している。たとえば、ドアノブを回すとドアが開く。自動販売機にお金を入れてボタンを押すと商品が出てくる。特定の時間と場所で乗り物に乗ると、特定の場所に連れて行ってもらえる。当たり前のように経験しているこれらの現象も、もともとはサリエンシーであった。

同上

当たり前のように経験しているこれらの現象も、初めて見たときは未知のもので、なにが起こっているのか理解できなかったはずです。けれどなにかが起こっている。気になる。何度も繰り返し見る。そしてある時ようやく、そこでなにが起こっているのかを理解するのです。

つまり、世界にヒビが入ったとき、その予測不可能性を攻略して理解するためには、何度もその出来事を繰り返し経験しなければなりません。そうすることで、傷を唯一のものではなく、よくある傷として受け入れられるようになるのです。

しかし中には、一度で致命傷になりかねないような深いトラウマがあります。そういう傷は、何度同じような経験を重ねたところで癒えることはありません。ところが、その傷を治癒可能かどうか、自分自身にはわかりません。それが問題なのです。だから普通の傷と同じように再現性を求める欲求が働いてしまう。そうして、先述したような循環に陥っていくのです。


この運命に抗うことはできるのでしょうか。私は、できるはずだと思うのです。 

癒えない傷を忘れるためには、似た傷ではなく似ていない傷をできるだけたくさん増やしていくことです。そして逆説的ですが、それは癒えない傷を忘れないということでもあるのです。完全には忘れられないことを受け入れつつ、少しだけ忘れること。本当に忘れようとすると、あの欲望のスパイラルに陥っていきます。それを避けることが大事です。

恋の文脈で言えば、それはつまり、過去の恋愛の追体験をしようとするのではなく、まったく別の、未知の恋を求めることだといえるでしょう。傷跡をなぞるのではなく、まったく別の箇所に傷を作ること。同じ傷ばかりを求めてしまう人は、予測外の他者に対して開かれていません。だから余計に、まったく新しい恋を見つけ出すことができないのです。

第四回で書いた、「到来を待つこと」がここで繋がってきます。

実現すると信じること自体が、実現することよりも重要な意味を持つことはよくあります。

恋愛も、まさにその典型です。私の理想通りの人間なんて、そんな自分に都合のいい存在がいるわけがないことは最初からわかっているのです。それでも、もしかしたら運命の人がどこかにいるかも知れない、と信じることだけが、恋愛の原動力となります。

恋するふたりは暗号を送り合う / 到来を待つこと
(傷だらけの恋愛論 第四回)

願望を持ち続けること。私に傷をつけた人ではなく、もっと別の、心の奥で本当に私が願っている、理想の、運命のような他者を信じて待ち続けること。

もっと未知の何かが到来することを願わなくてはなりません。予測外の、想像を絶するような他者を。

つまり結論は、いろんな恋をしよう、ということです。なんの解決にもなっていないように見えるかもしれませんが、そうとしか言いようがないことがわかりました。



今回のまとめ

未知の物事との遭遇は常に傷を伴います。そして人は傷ついたとき、何度もその現象に触れて経験することによって、それを理解して克服しようとします。

しかしそれが克服不可能なほど深い傷を残したとき、トラウマによる傷の病や、恋愛における恋の病を引き起こすのです。

それを根治させるためには、時間をかけて、別の傷をたくさん作っていくことによって、最初の傷を相対化するほかありません。

そのとき問題になってくるのが、再現性を求める欲求です。この欲求があることによって、普通の傷の場合は、それを何度も経験して慣れることができるのですが、克服不可能な傷に対しても、この欲求が働いてしまうのです。

すると、同じ傷を何度もなぞったり弄ったりするみたいに、似た経験を繰り返し求めてしまい、傷がいつまで経っても塞がりません。そうして『ハッピー・マニア』の重田カヨコのように、傷つくとわかっていながら、同じような恋を求め続けてしまうのです。

それを避けるには、願望を持ち続けることです。自分を傷つけた人の影を追い続けるのではなく、もっと予測外の、まだ見ぬ運命の人を、心の底で待ち望むこと。願望水準を高く保ち続けること。


というところで、今回はいつもの倍くらい長くなりましたが、このへんで終わりにしたいと思います。

次回は何を書くか未定です。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

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