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恋するふたりは暗号を送り合う / 到来を待つこと

(傷だらけの恋愛論 第四回)



「他者と一体化したい」という欲望について

今回は「恋の病」を乗り越えて、どのように恋愛が進展していくのか、考えていこうと思います。

なぜ「恋の病」になってしまうのか、という理由については前回掘り下げて書きましたが、その中心にあったのは「相手の真意を知りたい」という欲望でした。それに答えが出せないため、相手の言動から無限にサインやメッセージを読み解こうとしてしまうのです。


しかし「知りたい」という欲望だけでは、いつか相手の気持ちを確定させてしまえば、熱は冷めてしまいます。だから、「知りたい」という欲望は、ここでまた別の欲望にすり替えられる必要があります。

また別の欲望とはなにか。端的に言えば、それは「他者と一体化したい」という欲望です。


第一回で詳しく書いたように、他者を欲望する感情の根底にあるのは「心の穴」です。誰もがトラウマによって心に穴を空けられていて、そのせいで、人は「何かが欠けていて、満たされていない」という感覚をずっと消すことができません。

人は、この心の穴をぴったりと埋めてくれるような他者を求めています。つまり恋愛の最終目標とは「好きな人とひとつになること」です。そうすれば、私は完全になれる、と信じている。それこそが人間の最も根源的な欲望なのです。


どの時代のどの社会においても、人間は同じ一つの問題の解決に迫られている。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題である。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木晶訳

完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち愛にある。
自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間のもっとも強い欲望である。

同上


人間の心理の奥底には、他者と究極の一体化をしたいという欲望があるのです。しかし、現実には別々の人間同士が完全にひとつになることなど不可能であることはわかりきっています。つまり「他者と一体化したい」という欲望は、誰もが持っているけれど、現実的には不可能な願いとして、普段は心の奥にしまってあるものなのです。

しかし、その欲望を目覚めさせるのが恋愛です。恋をしている時、人は「この人と一緒になれば私は完全になれるのではないか」と本気で考えるようになります。それは言ってみればか、あるいは恋愛をしているときにだけかけられる魔法のようなものなのです。


さて、冒頭で述べたように、最初に恋に落ちてから次のステップへと進むためには、「知りたい」から「一体化したい」へ、欲望がすり替えられなければなりません。では、その欲望の移行は、一体どのようにしてなされるのでしょうか。



恋するふたりは暗号を送りあう

恋をすると、相手の言動からサインを読み取ろうとするようになります。もし君が私のことを好きならば、なにかそれを伝える暗号のようなものを送ってきているはずです。例えばアイコンタクトとか、私が選んだものと同じものを君も選んでいるとか。そういうふうに、私への好意が行動に表れているはずだ、と。それが前回書いた、恋の病の症状のひとつでした。


ここで気になるのは、恋の病にかかっているのは私だけではなく、君も同じはずだ、ということです。君も、私がしているのと同じように、私の言動からサインを見つけ出そうとしているはずです。いや、そうであってほしい、と私は思っているのです。あなただけにわかるように私が送ったサインに、気づいてほしい。

恋するふたりはこのようにして、他の人にはわからない暗号を送り合います。そうすることで、お互いに恋心を確かめようとしているのです。


この時点ではまだどちらも「好き」だと明確に言葉にしてはいません。アイコンタクトも、相手と同じものを選ぶというサインも、そこにはおそらく好意があるだろうと肌で感じるのだけれど、究極的にはどうとでも解釈可能であり、まだ最終結論は出ていません。

第二回で書いたことを思い出してください。相手の不確定性と予測不可能性こそが私の世界にヒビを入れて、それが恋のきっかけになるのでした。逆に言えば相手の気持ちが完全にわかってしまうと、むしろ恋心が冷めてしまうということがあります。だから恋を進展させるには、最終結論を出さないまま、お互いの欲望を膨らませていかなければなりません。


相手にしかわからない暗号を送り合うのは、触れることなく、お互いをくすぐり合うような、じゃれ合うようなコミュニケーションです。そうすることで、結論を決して口にすることのないまま、恋愛を確信に近づけていくのです。

サインが通じ合った感触が得られれば喜びを感じ、この人はやはり運命の人かもしれないとさらに強く思うようになります。通じなければもどかしさを覚えて、欲望がさらに膨らみます。喜びともどかしさ。このふたつの感情に後押しされて、ふたりは両想いであるという確信へと少しずつ近づいていきます。その過程で、「知りたい」だけでは満たされない感情が、「ひとつになりたい」という欲望を呼び起こすのです。



夢を見られなくなった私たち

このようにして「知りたい」という欲望は「ひとつになりたい」という欲望へと移行していきます。しかし、ときには恋心が途中で冷めてしまって、それ以上進展しなかったというケースもよくありますよね。

「蛙化現象」という言葉も少し前に話題になりました。メディアなどで取り上げられるようになってから初めて私も知りましたが、「恋愛感情や好意を抱いている相手のささいな言動が気になり、気持ちが急速に冷めてしまう」という意味で使われているそうです。


この言葉がこれだけ急速に広まったということは、最近になって、こういう「ささいな言動で冷めてしまう」感覚を多くの人が共通して持つようになったということの表れではないでしょうか。

なぜ蛙化現象を多くの人が経験するようになったのか。いろいろと理由はあると思いますが、一番大きな理由は夢を見ることができなくなったからだと私は思っています。

先ほども書いたように、「この人と一緒になれば私は完全になれるのではないか」という願望は言ってみればであり、恋愛をしているときにだけかけられる魔法のようなものです。しかし今は、多くの人がこのような夢を思い描くことすらできなくなっているのではないか、と感じるのです。


その理由は、現実があまりにも地獄だからです。景気の悪い社会で日々の生活に追われるのに精いっぱいで、予想外の出会いなどどこにも転がっていません。自分から出会いを求めてマッチングアプリをやってみれば、現れるのは利己的な人間ばかり。こうして、恋愛に対する期待値がどんどん下がっていきます。

期待水準が下がると願望水準も下がる、ということを社会学者の宮台真司さんは言っています。期待水準とは、現実に求める期待値のことです。一方、願望水準とは、現実に叶うかどうかは別として、心の奥に持っている本当の願いのことです。

つまり、現実に失望して出会いに対する期待値が下がってしまうと、それにつられて自分の心の中に持っていた「本当の願い」のレベルも下がってきてしまうということがよくあるのです。

本当の願いとは「私のことをわかってくれる誰かと、ひとつになりたい」というような願望です。宮台さんは、現実に「期待」ができなくなっても、心のなかでは「本当の願望」のレベルを下げずに持ち続けることが重要だ、と言っています。


なぜ願望を持ち続けることが重要なのか。それは私が何度もしつこく書いている「恋愛は、理想でも運命でもなんでもない相手を、運命の人だと思い込むという錯誤によって生じる」ということにも関わってきます。

願望水準とはつまり、現実に叶うかどうかは別とした「理想」のことです。だから願望水準が下がってしまうと、そもそも「理想」や「運命」を思い描くことができません。私を選んでくれる素敵な人なんているわけがない、とはじめから考えてしまって、「もしいるとしたらどういう人がいいか」を想像することもできなくなっている状態です。

すると当然、「目の前の人が私の運命の人かもしれない」と錯覚することもできなくなります。つまり、願望水準が下がってしまうと、誰とも恋に落ちることができなくなってしまう。だから、現実に期待ができなくなっても、心の中の願望の水準は高く保ち続けなければならないのです。



「誰か」の到来を待つこと

運命的な他者が突然私の前に現れることなんてあるはずがない、とわかっていても、それでもひょっとしたら、万に一つの可能性として、運命的な出会いがある日突然やってくるかもしれない、という願望を心の隅にしっかり持っておくこと。それがとても大切なことなのではないかと思います。


ところで、サミュエル・ベケット作の『ゴドーを待ちながら』という有名な戯曲があります。二人の登場人物がゴドーという人を待っているのですが、ゴドーはいつまで経っても表れず、彼が結局何者なのかもわからないまま、物語は終わってしまいます。「不条理劇」の代表作として知られた作品です。

ゴドーを待っている二人の人物は、ゴドーが現れることをちっとも期待しているようには見えません。どうせゴドーは来ないだろうとわかっているような感じで、他愛もない会話をひたすら続けています。それでも二人は、物語の最初から最後まで、決して現れることのないゴドーを待ち続けます。

それはなぜでしょうか? 答えは簡単です。もしもゴドーが現れたときに、待っていなければ出会えないからです。だから彼らは、ゴドーが現れることに期待はしていなくとも、結果として今日もゴドーは現れなかったとしても、願望だけは捨てずにずっと待ち続けている。

それは、到来を待つこと自体が彼らにとって重要だからです。ゴドーは「神(God)」の隠喩であるとよく言われます。神が現れることよりも、神を信じて待つことが重要なのです。信仰心はそこに生まれるからです。


実現すると信じること自体が、実現することよりも重要な意味を持つことはよくあります。

恋愛も、まさにその典型です。私の理想通りの人間なんて、そんな自分に都合のいい存在がいるわけがないことは最初からわかっているのです。それでも、もしかしたら運命の人がどこかにいるかも知れない、と信じることだけが、恋愛の原動力となります。



今回のまとめ

恋する二人は他の人にはわからないサインを送り合うことで、お互いに核心に触れることなく距離を縮めていき、その過程で「知りたい」という欲望から「ひとつになりたい」という欲望へとシフトチェンジしていきます。

しかし現代では恋愛に対する期待水準が下がっていて、そのせいで願望水準まで下がってしまっている人が多く、恋愛にそもそも夢を抱けなくなっています。そのため、「知りたい」から「ひとつになりたい」への移行がうまくできず、恋心が冷めてしまう、という人も増えているのです。

恋愛に対する「本当の願望」を心の中に持ち続けて、運命的な他者の到来を信じること。それが本気で恋愛をするためには必要なことです。


さて次回は、恋愛が成就して結ばれたあと、二人にかかった魔法がどのように解けていくのか、ということについて書いていきたいと思います。が、今回も前回予告したのとはちょっと違った内容になったので、気分次第で変わるかもしれません。それでは、このへんで。

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