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好きな人の顔が思い出せないのはなぜ

(傷だらけの恋愛論  第二回)


恋は予測の外側からやってくる

恋に落ちるのはどんな瞬間でしょうか。いきなり結論から書いてしまいますが、それは、予想を裏切られたときです。

ありえない、起こるわけがないと初めから頭の中で除外していたようなことが起こったとき。思いもよらない出会いがあったとき。私なんかに興味があるはずないと思っていた人に優しくされたとき。そういうときに、恋は芽生えやすいものです。

真面目な堅物だと思っていた職場の同僚が、私が仕事で困っているときに思いがけずフォローしてくれたとしたら、私はその同僚の優しさに好感を抱くでしょう。そのときポイントになるのは「思いがけず」という部分です。「ギャップ萌え」という言葉もありますが、同じことだと思います。

この人は当然手伝ってくれるだろう、という人に手伝ってもらっても、感謝はもちろんするのですが、それによって相手の印象が変わることはないし、ときめくこともありません。予想外のことだからこそ、私の印象に残るのです。

そのとき起こっているのは、私の中にある同僚に対するイメージの変容です。私はその人のことを「真面目な堅物」だと思っていたのに、実はそれは彼の一面に過ぎなかった。「優しさ」という、実はまだ私の知らない一面があった。この事実に直面したとき、私の中の同僚のイメージが揺らいでいるのです。

この「イメージが揺らぐ」ということがポイントです。私なりに理解していた同僚の人物像が覆されることによって、その人がどういう人物なのか一言で説明ができなくなります。


こんな経験をしたことがある人はいないでしょうか。例えば、好きな人ができたことを友達に打ち明けてみたら、「その人のどこが好きなの?」と聞かれて、うまく応えることができなかった。あるいは、「優しいところが好き」などと答えてはみたものの、それで自分の恋心の理由を余すところなく説明できているとはどうしても思えず、もどかしく感じた……。

しかしそれは当然のことなのです。その人がどういう人なのか、捉えきれなくなって、うまく説明できなくなっている状態こそが、その人に恋をしている状態だからです。



世界にヒビが入ること

人間はなにか物事の説明がつかない状態を落ち着かなく感じるようにできています。目の前の物事にどのような説明をつけるのかは人それぞれで、例えば人間がどうやって誕生したのかということについて、ダーウィンの進化論で説明する人もいれば、神様が人間を作ったのだ、と説明する人もいるでしょう。

ここでは、その説明が科学的に正しいかどうか、ということは重要ではありません。ポイントは、人がなにか予想していなかったものや理解しきれないものに出会ったとき、それになんとか説明を与えて、自分の理解の範疇に落とし込みたいという欲望が働くということです。


先ほどの同僚の例に戻って考えてみましょう。同僚は私が予想していなかった優しさを見せてくれました。私はそれにドキッとします。そして次に浮かんでくるのは疑問です。「どうして急にそんな優しさを見せてくれたんだろう?」「もしかして私のことが好きなのだろうか?」

わからないことがあるともやもやします。頭からそれが離れなくなるのです。そして真意を確かめたくなってしまう。そのために、あの人のことをもっと知りたい、と思う。


このように、自分の身近な世界になにか説明のつかないものが現れて、そのことが頭から離れなくなっている状態のことを、「世界にヒビが入った」と表現したいと思います。恋愛に限らず、なにか未知の他者や出来事と巡り合ったとき、私の世界にヒビが入るのです。

ヒビが入ったとき、そのことにばかり気を取られてしまうのは、無意識にそのヒビを修復しようとするメカニズムが脳内で働いているからです。

車が故障したときも、故障した箇所を調べて、何が原因か理解することで、どのように対処すればいいかわかりますよね。それと同じことを脳が無意識のうちに行っているのです。だから、わからないことはずっと頭の中にもやもやと残り、「気になる」という気持ちが湧いてきます。

誰にでもその人なりの世界に対する認識があり、その認識は、こうやってヒビ割れと修復を繰り返しながら、絶えずアップデートされています。何か新しい物事に直面し、どういうことだろうと思案して、理解に落とし込む。そうやって、人は自分が理解できる世界を少しずつ広げているのです。

つまり、世界にヒビが入ることは、それを修復し、世界に対する認識をアップデートして広げていくための前段階なのです。


大人になっていく中で、いろんな未知の物事に触れて、人は自分の世界を広げていきます。しかし多くの人が、どこかのタイミングで自分の世界をアップデートすることができなくなっていく、ということも指摘しておかなくてはなりません。

世界が広がっていくにつれて、だんだん自己が確立されると、自分の理解できるものだけが「常識」だと思い込み、そうでないものは「非常識」だから、わざわざ理解しなくても良い、と考えるようになります。そして、理解不可能なものを気にせずに切り捨てることができるようになっていくのです。

大人になると、若い頃のような恋愛ができなくなる最大の理由はこれではないかと思います。恋は予測の外側からやってくる、と冒頭で書きましたが、それは言い換えれば、恋はあなたの「世界」の外側からやってくる、ということです。しかし多くの大人は、自分の世界の外側からやってくる理解不能な他者を受け入れられなくなっているのです。



好きな人の顔が思い出せない

ところで、「好きな人の顔が思い出せない」という経験をしたことがある方はどれくらいいるでしょうか。私は昔から、恋しているときは好きな人の顔を全然思い出せませんでした。ネットで検索してみても同じことを言っている人が結構いるので、割と普遍的な現象なのではないかと思っています。

なぜこのようなことが起こるのか。その原因も、ここまで書いてきたことを当てはめて考えれば仮説を立てることができます。


先ほど述べたように、恋しているとき、その相手のイメージは私の中で揺らいでいて、不定形です。つまり、私の中でその人の印象を確定させることができないのです。

想い人のイメージは頭の中で次々に移り変わります。その人と自分が近づいたらどのようになるのか。その人がどのような表情を見せるのか。予測は無数に分岐して、確定することがありません。

だから頭の中のイメージはぼんやりしていて、どんな想像や妄想も当てはめることができるようにさえ感じてしまう。それが恋をしているときの状態なのではないでしょうか。そのせいで、好きな人の顔を思い出せないのです。


別の言い方をしてみます。私がAさんに恋をしているとき、現実のAさんとは別に、私の頭の中にAさんのイメージがあります。私が恋をしているのは、その頭の中のイメージのAさんなのです。

イメージのAさんは、私の頭が作り出したぼんやりとした幻影です。そして必ずと言っていいほど、人はその頭の中の幻影に自分自身の理想を投影しています。人は恋するとき、まず自分の頭の中に作ったイメージに対して恋に落ちるのです。

しかし頭の中のAさんには近づくことも触れることもできません。そもそも私はそのとき、実際のAさんと私の頭の中のAさんは別であるということに気づいてすらおらず、その二者を混同したまま、現実のAさんに接近しようするのです。

第一回で何度もしつこく書いた「恋愛は、理想でも運命でもなんでもない相手を、運命の人だと思い込むという錯誤によって生じる」というのもこれと同じことです。だからこそ現実と理想の食い違いが起こります。そのせいで摩擦や衝突が起こったり、勝手に幻滅したりするのです。



今回のまとめ

恋に落ちるのは、予測外の他者が現れたときです。そのとき、世界にヒビが入ります。ヒビを修復するためには、その人のことを理解して、予測可能範囲内に落とし込まなければなりません。したがって、私は無意識のうちに、その人のことをもっと知りたいと考えるようになり、頭から離れなくなっていきます。

すると私の頭の中で、その人のイメージが想像によってどんどん膨らんでいき、輪郭が漠然とぼやけていきます。頭の中のイメージは、すでに現実の相手とはズレが生じているのです。

そして、その漠然としたイメージには、自分の理想が必ず投影されています。そのせいで、理想と現実の食い違いによる衝突という問題が起こってしまうのです。


ということで、今回はここまで。

次回は、さらに恋がエスカレートしていくとどうなるのか、「恋の病」とはなんなのか、ということについてさらに考えを進めていきたいと思います。

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