「めんどくさい」をゲシュタルト崩壊させると身体が動く
脳科学者のジル・ボルト・テイラーは、37歳のときに脳卒中を起こした。自分の脳がひとつ、またひとつと機能を止めていく様子を、彼女は克明に覚えていた。脳科学者としての豊富な知識と語彙、そして分析力によって、彼女は意識の牙城が崩れ落ちていくさまを言葉によってまとめあげた。(※1)
脳の「言葉を司る部位」が機能を止めたとき、彼女の頭のなかから一切の独り言が消えた。そして恐怖が消えた。まさに死ぬかもしれないその瞬間に、彼女は世界との一体感、幸福感を感じていた。
いつも頭の中が独り言で満ちている僕にとって、「言葉が止まった」世界の話は、興味をひかれずにはいられなかった。
彼女はニルヴァーナが誰でも経験しうるものであることを、科学者らしく脳の仕組みに基づいて、自然科学を信奉する我々にも納得できる切り口で語ってくれる。もっと日常に近い悩みに寄り添う話も魅力的だった。特に、彼女のいう「90秒ルール」によって、僕は怒りという感情と、かなりうまく付き合えるようになったと思う。
もっと良かったことは、この「90秒ルール」が、怒りだけではなく、ほかのあらゆる感情にも応用できると気づけたことだ。それは僕が長年、対峙し続けてきた「めんどくさい」という感情についても、例外ではなかった。
今回は、「思考を止めるということ」「90秒ルール」などをキーワードにしながら、めんどくさいことをするときには避けては通れない「決断の痛み」との向き合い方を、考えてみたい。
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めざましの音で目が覚める。起きあがろうか、それともまだ横になっていようかと迷う。いや、それは正しい表現ではない。すぐに起きるべきなのだ。迷っているわけではない。ぐずぐずしているのだ。まだ寝ていたいという、もう一人の自分が、プレゼンをはじめている。「もう少し眠ったほうが、今日一日のパフォーマンスが上がる」だとか、「じゃあせめて、もう少し部屋が温まってからにしようよ」だとか言っている。
ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』になぞらえるなら、これはシステム1とシステム2の争いなのだろうか? まだ寝ていたいシステム1と、今日こそは早起きしたいシステム2の、争いなのだろうか?
横になったままそんなことを考えているのが、もうまんまと、システム1の策略にはまっているような気がする。こうしている間も、僕はベッドの上でぬくぬくと過ごしている。屁理屈を眺めながら、僕は「起きる」決断をぐずぐずと先延ばしにしているのだ。
この争いはベッドの上にとどまらない。起きてからもずっと続く。部屋を片付けるべきか? おやつを食べていいか? いよいよ仕事を始めるべきか? YouTubeを見るのをそろそろやめるべきか?
どうして僕らは、決断できない時間をぐずぐずと過ごしてしまうのだろう。それは、決断に意識を向けることができないでいるからだ。決断しようとすると、僕らはすぐさま、屁理屈を考えはじめる。まったく別のことをしはじめる。スマホをさわりはじめる。とにかく気が散る。決断に意識が集められない。
なぜそんなことになるのか? 決断が、苦痛を伴うものだからだ。もっと正確にいうならば、決断に意識を向けることそれ自体が、苦痛を伴うものだからだ。起きることを意識しただけでも、コルチゾールは副腎から溢れだし、全身にストレスが巡る。だから僕らは、決断(について考えること)を避けるためならば、あらゆる工夫を思いつく。
とはいえ、決断をずっと先延ばしにし続けることもできない。いずれは「遅刻する」「社会的な信用を失う」というもっと大きな恐怖によって、僕らは飛び起きることになる。決断の苦痛よりもさらにもっと強い苦痛があれば、僕らは決断することができるのだ。だから締切が、この世からなくなることはない。
小さい苦痛を大きな苦痛で乗り越えるのがいやならば、強烈な快楽によって苦痛を乗り越えるという方法もある。ディズニーリゾートに行くためなら早く起きられる人も多いだろう。仕事が楽しくて、早く続きに取り掛かりたいと思えるなら、朝もきっと怖くはない。現代人は、みんなこの生き方に憧れている。
しかし残念ながら、僕も含め多くの人は、現状、大きい苦痛で小さい苦痛を乗り越える戦略の方を、とらざるをえないようだ。快楽によって自分を突き動かすのは、カンタンなようでいて、とても、とても難しい。
決断のほうに話を戻そう。決断は、意識するだけでも小さな苦痛が伴う。この痛みこそが、この「痛みを避けすぎること」こそが、人生の納得感を大きく損なう、要因になっていると僕は思っている。
読みたい本がたくさんあります。