親も子もどちらも苦しいのに、一緒にいるのはどうしてか。
#20231003-247
2023年10月3日(火)
※ ちょっと弱音を吐いています。
即効性のある子育ての極意なんていうものはないとわかっている。
特に我が家のような里親家庭の場合は、まずは信頼と安心を作ることからはじまる。足元がぐらぐらと揺らいでいる土地に何を建てても、たやすく崩壊してしまうからだ。
大抵の育児書や子育て本は、中途養育を前提にしていないため――仕方がないよね、スーパーマイノリティらしいから――しっかりとした土地はすでにあり、そこに子どもが何を建てていくのか、親はどのように支えればいいのか書かれている。
里子であるノコ(娘小4)と一緒に暮らして、まる4年が過ぎた。
9歳のノコの人生のうち、施設での年月のほうが長い。年数を超えればいいわけではないが、ノコの価値観は施設で育まれた。価値観だけでなく、その短い期間に実親から乳児院、児童養護施設と本人の意思とは関係なく、頼れる人と場所が変わった。
しっかりとした土地作りなんてする余裕はなかっただろう。
人間、まずは安心安全だとノコを見ていて強く思う。
私が子どもの頃、たまに会う親戚のおじさんから「はちは、父親にも母親にも似てないなぁ」「橋の下から拾ってきたんじゃないか」「いっそ、うちの子になるか」なんてからかわれたが、もし両親の子でないとしてもこれだけ手をかけ、不自由なく過ごさせてもらっているのだから、なんの不満があるのだろうか、と思った。悲しくなったり、淋しくなったりしない自分がちょっぴり薄情な気もしたが、今、振り返るとおじさんの言葉を戯言だと跳ね返せる確かな足場、土地があったからなのだとわかる。
姉であることを求められることが多く、親から抱き締められたり、「大好き」「愛してる」「大切よ」という言葉を浴びたりした記憶はないが、まだ一人っ子だった3歳までは多分抱っこにおんぶと年齢なりのスキンシップもあったのだと思う。
私が覚えていないだけだ。
ノコはまだ我が家を安心安全だと思っていないし、どんな自分であっても私とむーくん(夫)が受け入れると感じていない。
宿題を拒み、食事や入浴を拒んでは、「どうせ悪い子の私はいらないんでしょ!」と睨む。
最近のノコは全身で「私はどこに行ってもいらない子なんだ!」と叫んでいる。
これが難しい。
宿題をせずともいいが、それについて何もいわなければ、「私のことなんてどうだっていいんでしょ」となる。それならばと、宿題に取り組みやすくなる仕組みを考え、ノコの気持ちが上がりそうなあれこれを試してみても「ヤダ!」で一蹴される。
即効性のある子育ての極意なんていうものはない。
時間をかけて、じんわりじんわりノコを温めていくしかない。
だが、こちらとて子育て初心者、どうしても肩に力が入る。もっと気楽にゆったりドッシリ構えたいと思ってもなかなかできない。
見守ることと諦めることは違う。
見守りにはどうしても期待が混じる。それは子どもをこうしたい、ああしたいと自分の思うようにコントロールしたいという期待ではなくとも、よりこの子が生きやすく、穏やかに、笑顔でいられるよう願ってしまう。
あれこれいってしまうむーくんにしばらく何もいわず「見守る」ようお願いしたら、何もいわずにはいられないと返された。ノコに興味を失くし、諦めるのならば、何もいわないことはできる。だが、興味を持ち、一緒に暮らしたいと思う限り、どうしても何かいってしまうという。
そうなのだ。
どうでもよければ、どうでもよくなってしまう。
でも、どうでもよくなくて、どうにかしたいから、苦しいんだ。
ノコが「死にたくなる」といった。
散々「ヤダヤダ」とノコが癇癪を起こした直後だったこともあり、私はその言葉に硬直してしまった。
ノコを抱き締めることができなかった。
ただ悲しい顔しかできなかった。
「ほら、こういうこというとさ、ママ、困った顔するじゃん。だから、いえない!」
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