「〇〇しませんか?」という誘い文句の効用。
#20230921-236
2023年9月21日(木)
「ねぇ、ノコ(娘小4)さん、お誘いするときに『〇〇しませんか』っていってほしいな」
片道1時間半かかる児童相談所へ向かう道すがら、ノコがいう前に私から提案する。
以前、延々と繰り返されるしりとりに疲れ果てた私がノコに新しい言葉遊びを提案した。物語を交互に2人でつむいでいくのだ。1行ほどの長さで交代するが、気分によってはもっと長く創作してもよい。
ノコはこの遊びが気に入り――しりとりより頭を使わないで済むのでそれはよかったのだが――このルートで児相へ行くときは必ずやりたがるようになってしまった。人はすぐに飽きる。私から誘った遊びだが、私のなかではあっという間にマンネリ化してしまった。
子どもに「つきあう」ことへの配慮を求めるのもなんだが、私はなかなかノコの遊びを一緒に楽しめない。どうしてもノコの遊びに私が「つきあう」形になる。ノコに合わせているのでつい億劫になる。
ノコは私が遊んでくれているのだと思っていない。
ママも私と遊ぶのが楽しいと思っている。
「ママ、〇〇しよっ!」
だから、誘う言葉が「〇〇しよう」になる。
大人になってから、「〇〇しよう」とあまりいっていないし、いわれていないことに気付く。
この誘い方は、断られることを考えていないと感じた。相手が承諾すると思っている。かなり強い誘いの言葉だ。
一方、日本語には否定と疑問の形をした誘いの言葉がある。
――〇〇しませんか?
「しません」という否定の言葉がつくせいか、それを引き継ぐように「しません」といいやすく、断りやすい流れになっているように見える。
――〇〇しませんか?
――あぁ、〇〇しません。
でも、ちょっぴり申し訳ない気持ちが生まれて、
――でも、△△はどうでしょう?
代わりを提案したくなる。
ノコが少し考えてからいう。
「ママママ、ママママ、お話作りごっこしませんか?」
これはおもしろい。
ノコに「お話作りごっこしよっ!」といわれるより、私の心に余裕が生まれる。
言葉を受けて「しません」と返しやすいけど、私と物語を紡ぐこのひとときをノコが楽しみにしていることが伝わり、つきあってもいいように思えてくる。
「うーん、どうしようかな」
ノコも私がためらってもいつものように強引に「やって! やるの! やりたいの!」といわない。
「じゃあ、やりますか」
ぱあああっとノコの表情が明るくなる。
こんなに嬉しそうなのだから、私もじらさずすぐ応じればいいものを強引に誘われ、断ると怒るので気が滅入る。この場合のノコの怒りは「楽しくない」「つまんない」「私をひとりにしないで」なのだが、しょんぼりするのではなく、「なんで! 子どものお世話は大人がすることでしょ!」というノコがよくいう台詞が浮かぶので私もげんなりしてしまう。
――〇〇しませんか?
この言葉は発するほうも自然と相手の意思や都合を尊重したくなるようだ。
親子間でなに配慮や遠慮をしているのかと思われそうだが、「親しき仲にも礼儀あり」だ。私は近しい人にこそ大切にしたい。長くいい関係を続けたいから心を配りたい。
「今日、遊ぼうよ!」
元気な誘いの言葉はまぶしいが、断られるという予測が入る余地がない。断られた場合、ショックが大きい。これを淋しそうな、悲しそうな態度で表せる人ならばいい。ノコは裏切られたように感じ、怒ってしまう。
そういう人こそ、断られるかもしれないことを含んだ誘い言葉を使ったほうがいいように感じた。
「今日、遊ばない?」
「ごめん、遊ばない。今日、習い事なの」
誘う時点で「遊ばない」と否定する言葉を自分の口から発しているため、「遊ばない」と返されても「あぁ、そういわれるかもしれないと思っていたけどね」と受け止められそうだ。
まずは私を練習台にこの誘い文句を使えば、ノコも友だちに使うようになるかもしれない。
それにしても否定を含んだ誘いの言葉があるのは、やはり根底に断りやすさと断られたときの傷つきを軽くするためなのだろうか。
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