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空気が読めなかった営業時代

TOEICは600点そこそこで漫画家志望だった私

今でこそロンドンに本社がある会社のパリ支店で、3か国語で仕事をするトリリンガルアシスタントとして働いてる私ですが子供のころからずっとなると決めていた職業は「漫画家」でした

大学も漫画を描く時間がとれるのと、話の構築方法を文学で学べると思ったので英文科でしたが英語の成績は悪くはないけど特別に良くもなかったです

学校の指示で受けさせられたTOEICの結果はたぶん600点位だったんじゃないかなと記憶しています。

英文科だったので600点以下は再受験だといわれていて、ギリギリだったのです。

大学生生活の楽しさで漫画を書くことに興味を感じなくなってしまい、凄い作品がかけるほどの実力もなかった私は、大学入学前方もともと興味があり、3年間アルバイトで多少業界に触れる機会があったアパレル業界への就職を目指して就職活動を開始しました。

苦戦した就職活動

大変な就職難の中、あまり効率的とは言えないやり方で臨んだ就職活動は難航。何せ当初は彼がいるから東京には行きたくないとか、ダサいリクルートスーツにお金を払うのはバカバカしいという理由で先輩からイマイチあか抜けない印象のスーツを着てアパレルの会社の面接に挑んだり、我ながら「やる気あったんだろうか?」と首を傾げたくなるような態度でした。(汗)

最終的には地元では大手のインテリアの会社で営業として採用されたのですが、今考えてみると採用されたのは英文科だから英語ができるだろうと思われたことと、最初の面接から時間を間違えて遅刻するようなはみ出しっぱなしの私なら、厳しい営業の世界でもやっていけると人事担当者に思われたからなのではと思います。

そもそも私が営業を志望したのは自分の内気なところ、オドオドしたところを鍛えたいというキャリア設計とは無関係な理由でした

困った新入社員だった私

この会社では最初に配属された部署で美人でやり手で強引な独身女性上司と相性が合わず、新卒で生意気だった私は上司のペースに巻き込まれることを露骨に嫌がった結果、次第に先輩達や周囲に気を使わせてしまうような居心地の悪い環境で働く結果になり疑問を感じるようになっていました。

今でいうブラック企業だったこの会社は残業がとても多く、家に帰ると大体いつも21時ごろ。

サービス残業も多く、休みも一応週休2日ではあったものの、土日は冠婚葬祭以外は絶対休めないなど、環境や条件的なことでも何かと疑問が残る職場でした。

バブルがはじけ、会社全体の売り上げがじりじりと落ちていく中、長期的打開策がなかったり、同族会社だったため、社長がオフィス内を奥さんと犬を連れてふんぞり返って早々と帰っていく姿などを見ていると、

「困っている人のためならいざ知らず、こんな社長のためにボランティア残業するのはまっぴらごめん」。

という思いが強くなり、自分で区切りをつけて辞めようと入社1年目に決心がつきました。

私が決心したこと

その区切りとは、

全社員のプレッシャーになっていたメーカー協賛の羽毛布団販売キャンペーンで目標達成して営業としての成果をだせる自分になること

ずっと働き続けると思って入社した会社を退職するからこそできることをしたいと思い、海外留学を実現させるための200万円をためること

でした。

この目標を達成するためには、次第に心理的な負担になっていった上司との関係性を変えて仕事環境を改善する必要があると反省し、本社に配属が変わったのをきっかけに

「まずは上司の懐に入る、相手に関心を持とう」

と方針を180度転換したのです。

チャンスは転勤してからまだ間もなかった頃直ぐにやってきました。社内の飲食スペースで店長と一緒になる機会があり、付けっぱなしにしてあったテレビの中継か何かを見ながら、

「店長も○○がお好きなんですよね?」

と声を掛けたのです。

やり手の幹部社員だけあって、社員全員から煙たがられていた反面、何かとみんなの話題にのる人物でもあったので店長に関する情報はいくらでも聞いて知っていましました。

この一言で相手の顔がぱっと明るくなり、その後も指示されたことをまずは反論せずにやってみることを続けていくうちに、信頼関係を築くことができました。

次第に下っ端の新入社員には任せられない催事のとりまとめ役など、何かと頼みごとをされるようになっていったのです。

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