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心の安定を促す言葉

家族で夕飯の食卓を囲み、そろそろ寝支度に入ろうかとしていたその時。

小3の長男が、私のもとにやってきた。
「おばあちゃん、目眩がするって」

それは、同居の義母からのSOSだった。
たまに出る、一時的な不調。
こう言ったら申し訳ないが、大概は安静にしていれば治まる。

非情に思えるかもしれないが、私は少しそっとしておくことにした。
義母は、ベッドに横になって頭を抑えてはいたが、他にどうということではない。

夕飯は普通通りに完食したし、血圧、体温も今日のところ異常はなかった。

少し、時間を開けて様子を見ようーーーー。

そう思って、布団を敷いたり長男の明日の支度を手伝ったりしてから、再び義母の様子を見に行った。

すると、さきほどまで頭を抱えながらも静かに横になっていたはずなのに、うんうん唸りながら、必死に頭を押さえている。

その間、30分にも満たない。

『まずい』

私の中で、過去の記憶が瞬時に蘇った。


2年ほど前、義母は激しい頭痛を訴えて総合病院の脳外科に二週間ほど入院したことがある。

その時は、数日前から「めまいがする」「頭が痛い」というような症状が出始め、ある時、急激に悪化。

夜も8時を過ぎてから「頭が痛い!」と泣き叫び、救急医療情報センターに電話をしたが、救急で脳外科医の常駐している病院は、そう都合よくあるはずもなかった。
しかたなく、翌朝まで待って病院に駆け込んだのだ。

病院についてから、一日中、検査、検査と立て続けにMRIやらレントゲンやら血液検査やらをはしごして、入院が認められて病室に運び込まれたのは午後の3時過ぎだった。

その間、義母の頭痛は一向に治まらず「う〜、う〜」とうめき続ける義母をストレッチャーで引っ張って歩いた。
もちろん、昼食を食べるヒマも余裕もなく、入院用具一式を取りに一度帰宅して、お釜に残っていたご飯を一口ねじ込んでから病院にとんぼ返りしたのを覚えている。

その時、義母に下された診断は「低ナトリウム血症」。
頭痛を訴えていたので、てっきり脳の病気かと思いきや、そうではなかった。
そして、病院ではハッキリと言われなかったが、義母は確信に満ちた顔で、原因について語った。

すなわち、原因は「過度のストレス」だと。

ストレスは人体に多大なる影響を及ぼす。
それは知らず知らず、私達の健康を蝕んでいるときがある。

その当時、自宅は雨漏りがひどくて補修工事を行っていた。
修理工事は、義母の知り合いで一人社長を張っていた大工さんに頼んでいたのだが、どうにも調子が良くない。

雨漏りの補修をするのに、まずは原因を探るところからスタートしたのだが、原因が一向にわからない。
原因が曖昧なまま「多分、窓のサッシから漏れているんだ」とか「屋根の通気孔から吹き込んだんだ」とか、憶測だけを並べてそれに合わせた対策をするよう勧められた。

私達も、始めは「はいはい」と言うことを聞いていたが、窓のサッシ交換、通気孔の雨除けをつける部品代、窓枠のコーキングを打ち直す等、度重なるやり直しに次第に嫌気が差した。

時は、5月。
梅雨入りの前に、雨漏りをすっかり修繕しておきたいというのが、私達の希望だった。
しかし、原因がわからぬまま見当違いな補修を繰り返している間に、沖縄や九州には梅雨の気配が忍び寄っていた。

義母は、大工さんを信頼していた。

今までもさんざんお世話になってきたが、いつも仕事には大満足なだけに、一向に打開されない状況に、人一倍、やきもきしていた。

最終的に、工事は大工さんの仕事仲間の屋根専門の職人さんに頼むこととなった。
原因はすぐさま見つかり、主人と私は安堵したが、義母の心境は複雑そのものだった。
結果としてことごとく期待を裏切られて、多大なショックを受けた義母。

義母がめまいと頭痛で泣き叫んだのは、その日の晩のことだ。

「またか」という思いと「入院になるかもしれない」という思いが交錯する。
そして、またも時刻は夜。

病院に行くにしても何にしても、そう容易くはない。
とりあえず、私は義母の枕元に赴いた。
日中、毎日一緒にいるわけだが、意外とゆっくり話す時間は少ない。
というのも、朝起きてから夜寝るまでの間、私が片時もじっとしていないからだ。

子供の世話に家事全般。
亭主関白な主人は、決まって私に所用を言いつけるし、私は要領が悪いほうだ。

結果として、一日24時間という限られた時間は、いつだって片時も休まることなく過ぎていく。
私がソファに腰掛けるのは子供の爪を切るときくらいで、テレビを見るのは洗い物をしながら子供が眺めているのを横目でチラリと見る程度。

それ以外の時間は、何かしら誰かしらの相手をしている。
そして、優先順位は否が応にも子供が一番で、口うるさい主人が二番、控えめな義母は私と話す暇もないまま一日を過ごすこともあるのだった。

子供たちは寝静まった時間、義母に集中して語りかけることが出来る貴重な時。
日中はそんな余裕も持てないのだが、この時は違う。

「大丈夫ですか?」

努めて落ち着いた口調で義母に語りかけると、義母はため息と共に私を振り返った。
頭が痛いから、タオルを冷やしほしい。
のどが渇いた。

控えめにそう頼まれて、頷く私。
私が居たからといって何が出来るわけではないけれど、こんな時、ただ寄り添う存在がいるだけで気持ちが楽になるということはわかっていた。

その日は、土曜日だった。
夜が明けても、病院は開いていない。
頼むから回復に向かってほしいという、ただそれだけをひたすらに願った。

「夕飯を食べている時は大丈夫だったんだけど…」「最近、こんなことなかったのに。ごめんね、ごめんね」弱気になって、義母は謝罪を繰り返した。

私が忙しくて相手に出来ないと、怒り泣き叫びながら主張する時もある義母。
でも、ちゃんと接していれば、性根は控えめで慎ましやかな人なのだ。
不安を助長させているのは、認知症状にほかならない。

15分ほど、枕元で話を聞いて、体温や血圧に異常がなく、その他の症状も特に無いことを確認した。

めまいや頭痛は、ストレス性のものである可能性が高い。

口が達者になって生意気な孫二人に言い負かされる。
日中、私に頼みたいことがあってもなかなか言い出せない。
認知症により、忘れ去られてしまう記憶や会話。

日常に積もった義母の苛立ちは、感情が不安定になることで露呈する。
急に泣き出したり、突然怒り出したり、ひどいときには物を投げつけたりもする。

その日の夕方、義母が孫二人に泣かされ、実の息子である主人に怒られ、苛立ちを募らせていたのはわかっていた。

「大丈夫ですよ」

相槌の変わりに、私はこの言葉を繰り返す。
おまじないみたいなもので、何がどう大丈夫なのかはわからなくとも、義母は安心するらしい。

次第に「ありがとう、ありがとう」と唱えながら泣き出し「もう大丈夫だから」「もう、かなえちゃんも休んで」と、私を気遣った。

夜間、トイレに3回ほど付き添った。
と言っても、転ばないように見守るだけだ。
それでも見守られている安心感が、義母のおぼつかない足元を支えてくれる。

深夜1時に起き出してきたのを最後に、ときどきうなされるように繰り返した唸り声は聞こえなくなり、規則的な寝息が響くのみとなった。

ひと山越えたかな、と思いながら私も眠りに就いた。

迎えた翌朝、義母は至って普通に起きてきた。
いつもどおりの時間に起き、朝ごはんを食べて、食後のお茶をすすっている。

朝のお薬を差し出すと「ありがとうございます」と、丁寧に頭を下げた。
まったくもって平和な、朝の風景。

昨日のことを覚えているか聞いてみると、覚えてはいたが症状はすっかり治まったようだ。
加えて、頭痛と共にイライラも消えて無くなったらしく、終始穏やかに過ごしていた。

義母は、話好きな人だ。
人恋しい人だ。
誰かがそばについていれば、それだけでモチベーションを保ててしまうのだ。
昨晩、ほんの15分程度枕元についていただけで、すっかり頭痛が消え失せるほど。

怒涛のように流れていく日々の中で、義母は必死に生きている。
認知症と戦いながら、家族に迷惑を掛けまいと必死に戦っているのだ。
こんなことがあるたび、私は日頃の態度を反省する。
もう少し、そのもう少しの配慮が足りていないのだ、と。

私は義母を見守りながら、これからも共に歩んでいく。
時には共に語らい、時には共に笑い合いながら、過ごす日々の愛しさよ。

子供の成長を追う日々と、義母の容態を見守る日々。
どちらもかけがえなく、限られた時間の中の出来事。

家族を守るその役割は、私に与えられた使命。
今日も限られた時間を生きながら、義母は必死に歩いていく。

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