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じぇらしぃ #4/7


反動の世代と揶揄される落ち目の作家の私は、新たに配属された若い女性の担当編集者のもと再起を図るのでした。当の編集者との東京タワーでの初デートが不首尾に終わった私は、食堂のテーブルの上に、これみよがしに妻の日記の置かれてあるのを発見し……。

『じぇらしぃ#3』あらすじ


 和綴の日記帳に記された妻の文字。手習の基礎のしっかりした、折り目正しい文字。心正しき人の文字。かれこれ二十年以上前に妻が反故紙に戯れに記した恋文もどきを、私は押入の奥に秘蔵するのでもありました。内容以上に、妻の文字を私は愛でた。金釘流の無骨な私の文字に続けて、妻が私の朝な朝なの習いを書いている。いわく、私は朝風呂に浸かりながら、勝手な歌詞をつけてのびやかになにやら歌う、それがたいそうな美声で、庭に鳥たちのきまって唱和すると。

 私の目を盗んで夜な夜な硯に墨を溶いたか、それとも出来合いの筆ペンを用いたか、それはわかりません。書き出しの二月某日は、私が妻に担当編集者の変更を知らせた日であるらしいのでした。 


二月某日
十年来の夫の担当編集者が次月より変わるらしい。今度は新人で、それも若い娘と聞いて、夫はナメられたものだと憤慨している。若い、それも女の感性をぶつけることで、新境地開拓の一助となればというK氏のせめてもの心遣いが、夫にはどうにも伝わらぬよう。

二月……日
夕刻、K氏が新人を連れて引き継ぎの挨拶に来る。せいぜいもてなす。新担当者のTは、肌艶はいかにも三十手前だが、夫のいう小娘という表現はまったく当たらない。ショートボブの猫顔だが、化粧はファンデを薄く引いたばかりの控えめで、やたらと恐縮したり愛想を振り撒いたりしないところがわたし的には好もしい。右頬の笑窪がひときわ深い。当意即妙の騒々しさとは無縁で、聞かれたことへの応答は人の平均より一拍遅い感じだが、話しはじめたらなんにつけ的確で、いい淀みも皆無。賢さもさることながら、話ぶりに思慮深さが感じられる。声の低さとあいまって、フローレンス・ピューをどことなく彷彿させる。編集者として申し分ない人物とみえるが、どうせ落ち目作家の新境地開拓を目論むなら、いわゆるギャル風のおきゃんを送り込むべきではなかったかとそこは少々不満。とまれ、老舗出版社にそんな人材、望むべくもなく。帰り際、さりげなくK氏が玄関扉を開けてTをエスコート。おや、この二人、と仄かな情事の香を嗅ぐ。

二月……日
夫の仕事がこのところノリにノっている。昼過ぎまで惰眠を貪る習いの彼が、夜明けと同時に起き出してせっせと書き物に勤しんでいる。スマホで書くことを覚えたようで、さまでこだわった縦書きについてもあっさり宗旨替えした模様、横書きも縦書きも本質的な違いはないなどとこの頃ではうそぶいている。原稿用紙のひとマスひとマスを埋める夫の金釘流がわたしは好きだったのに。仕事帰りのTが週末に我が家に立ち寄る。夫がこの頃気の張る理由の筆頭がこれ。しばらくすると書斎からどろどろと切れ目なく声が渡る。誰かがなにかを一方的に切々と訴えかけるような。そんなこと、ついぞなかったとつい耳をそばだてる。Tの声と思いきや、夫のそれ。どうやら書き終えた原稿を声に出して読んでいる。いけないとは思いつつ、書斎のドアにつと寄って、片耳を当てる。朗読が不意に中断される。部屋の外の気配に勘付いたかと身構えると、さにあらず、ボソボソと今度は女の声がして、耳をひたと当てると、「だからさ、小さいんだよ、声」とTが詰っている。「はい」と夫は怖い先生に叱られる生徒のような返事をして、朗読を再開する。「はい、ストップ。今のところ、通りが悪いの、読んでて自分でもわかるでしょ」とT。「はい」「そういうとこだよね。人から指摘される前に自分で修正しておかないと。努力と熱意が根本的に足りない」「はい」「はい、じゃねえよ。わかってんなら最初からやりなよ。それともおまえさ、わざとか」「は」「わざとかって、聞いてんの。質問に質問で返すなよ、ボケ」「いや、あ、すみません、わざとってなんのことか、ご質問の意味がわからなくて」「そうやってさ、あたしに怒られようとして、わざとこちらの手を煩わしてんじゃねえのかって聞いてんだろうが。ぜんぶいわすなよ」「あ、はい、すみません。でも、そんなことは、金輪際ございません。単に無能なだけで」「はぁ? 聞こえねえ」「自分は、その、無能です」「もっと大きな声で!」「無能です! 自分は無能です!」「無能? 気取ったいい方してんじゃねえよ、このチンカスが」「はい、自分はチンカスです」「はあ? いわれたこと復唱すんじゃねえよ。だからおまえは貧しいってみんなにいわれんの。なんでおまえみたいなチンカス野郎が作家とか名乗ってんの? 自分を卑下するにも最適解ってもんがあるだろうが」「……はい、自分はうすのろの馬鹿です。なめくじ以下の出来損ないの産業廃棄物です。物を書くに値しません。自分が物を書くことは、言葉や文字を発明した先人の偉業を汚すことにほかなりません。文学史にささやかに花を添えるつもりが、肥溜めにおのれのくそを捧げるのも同然でした。だから自分は罪人です。地獄の業火に炙られながら八つ裂きにされようと甘んじて受けます」「おまえさ」「はい」「今度なめくじ連れてくるからよ、なめくじ様に土下座して謝れ。金輪際自分を生き物に喩えるな。何様だよ、胸糞悪い」「ありがとうございます」「はあ?」「間違えました。申し訳ございません」「なめくじ様を舐めてもらう」「いや、それは。なめくじ様には広東住血線虫という寄生虫がいらっしゃって、これに寄生されますとからだじゅうを内側から食い荒らされて髄膜脳炎を発症しかねないことくらい、あなた様もご存知でしょう」「文句あんの」「いいえ。喜んでなめくじ様をねぶらせていただきます。そしてこの、なかば腐りかけの愚鈍な脳髄を、きれいに食らい尽くしていただく所存です」
……とてもとても夫とTのやりとりとは思えず、すんでのところでわたしは書斎に押し入るところだった。夫の、ここに白日のもとに晒された性癖についても、文字通りの青天の霹靂。こんな茶番にいつまで付き合わせるつもりかとTはにわかに激し、席を立つ気配がしたかと思うと、わたしの腰高にあるドアノブが回転したものだから万事休す。と、どたどたどたっと、これはおそらく夫がフローリングの床を這う音、「お願いです。まだ行かないで。行き詰まってるんです」夫がTの足にでも縋りついたと見える。「絞り出せよ。物書きで食ってんだろ?」「はい。絞り出します。絞り出しますとも。あの、ですから、その、いつもの……」「なんだよ」「その、手伝って」「はあ? なんだ、その口の聞き方は。このくそ虫が」「く……くそ虫?」「そうだよ、くそ虫。文句あんの」「いえ、なんだか、もう、ありがたくって」「なに泣いてんだよ、ハゲ馬鹿。失禁したら殺すよ。てか、ほら、ちゃんとお願いしないと」「……ああああ、そうでした。あの、手伝ってください。どうぞ絞り出してください!」
先ほどTがドアノブを回したせいで書斎のドアがわずかに開いたもので、わたしは抑えきれずその隙間からなかを覗き見た。まず見えたのは床に仰向けになった夫の頭頂部で、薄い髪があられもなく逆巻いて、トレードマークの鼈甲柄の眼鏡はかけておらず、疼痛を忍びでもするように固く目を閉ざしている。さらに大胆になって隙間へ顔を近づけると、チャッ、チャッ、と金属の触れ合う音がかすかに聞こえ、これはどうやら緩めたベルトのバックルの金具の打ち鳴る音、その音に呼応するように夫がふん、ふん、とうめいていて、ながら、もどかしげに下から上へ開襟シャツのボタンを外していく、そうしてはだけた腹を、胸を、指先に桜貝を五つ並べたような蝋のような小さな足がふたつ、夫の武骨な手を追うようにして、ゆっくり、ゆっくりと踏み進んでくる。
別れ際のふたりの変わり身といったらなかった。わたしの面前では完全に師と弟の関係で、Tは玄関の低いところで今一度原稿の出来ばえをほめそやして深々と頭を下げ、夫は夫で上り框の高いところから腕組んでもったいつけて首肯するなんぞ滑稽の極み、わたしはわたしで傍観するつもりはないので悪しからずと心につぶやきながら、口ではお気をつけてと気遣い、満面の笑顔作ってTを夜へと送り出したのだから剣呑も剣呑。

つづく

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