見出し画像

じぇらしぃ #5/7


落ち目の作家である私は、若い女性の編集者に担当が変わったことで一念発起。いっぽう、卓上に読めとばかりに放置された妻の日記帳を見つけた私は、そこに書きつけられてあるなにやら不穏な内容に釘付けとなるのでした。今回はその日記のつづき。

♯4までのあらすじ


三月……日
おりよく夫の散歩に出ているあいだにAmazon届く。天佑神助。絶対に発見されないという触れ込みの中国製超小型カメラが三台。これを×××と×××と×××に設置することわずか五分。この簡便さ、恐ろしい時代の到来。久々に軀体が内側から活性化されるよう。

三月……日
花冷えの一日。朝から老母の見舞い。上の姉を休ませるための丸一日交代介護。母は日に日に軀体が利かなくなり、それに乗じて気難しくなるようで、なんとも遣る瀬ない。
昼から雲行きが怪しくなり、午後には風が出て、夕から吹き降り。このぶんだと桜は今日一日でほとんど散ってしまう。

「自宅に訪問者あり」とスマホのポップアップが知らせる。アプリからカメラ①の画面を呼び出すと、案の定玄関先に立つのはT。傘を持たずに来たようで、前髪から水の滴るのが見えるほどに濡れそぼつ。このまま見守りたいところだが、老母の手前、一旦スマホは手提げにしまう。
「誰から」
気難しい母は、嫉妬深くもあり、執念深くもある。
「誰からって」
「メールでしょうが」
「ああ、夫」
「なんて」
「何時に帰るって」
「いってないの」
「いってないっていうか、いつものことだから」
「いつものことなのに、わざわざ尋ねてくるとは、どういう了見かね」
「さあ、わかりませんけど」
「若い恋人どうしじゃあるまいし、どうでもいいことをやり取りするなんてのは、なんだか気持ち悪いねえ」
「お母さん、わたし、愛されてるんです」
「ばかくさ」
母はこちらの冗談に笑いもしない。会話が途切れると、老母は音を絞って四六時中つけてある小型テレビに顔を向ける。おのずとこちらから顔を背ける格好になる。頭頂部の透けるほどに薄くなった白髪の、ぺったりと張り付いた丸い頭に片耳、おとがいの裏側のあらわになるこの角度からは、わたしの知る母の面影はかけらもない。わたしはかたわらに伏せた読みかけの本を手に取って、読書を再開するふりをする。

六時夕食。母完食。
窓外に見える里山の樹々が、薄墨を流したような茫と明るい夜闇のなかで激しくかぶりを振る。それを母はじっと見つめている。「台風かね」ぼそりとつぶやき、「春嵐でしょうよ」と答えたが、聞こえていたかどうか。じき寝息が聞かれ始める。

カメラ①とカメラ②に人影はなく、カメラ③には夫の書斎の机に向かって書き物に勤しむ人影……って、これ、わたし? 思わず目を剥く。机上のLEDスタンドに上体を照らされた当該人物、一瞥してわたしの部屋着を召すとは知れる。灰色のスウェット。そのシルエットから夫でないのは一目瞭然、首まわりのだぶついた感じと袖丈の持て余しぶりとから、女、あるいは子ども、と訝られ、ようやくほかならぬ編集者のTだと察する。遅まきなのは、濡れ髪のボブが男の子らしく見せていたからで。夫の愛用の万年筆を右手に、広げた原稿用紙へ覆い被さるように身を乗り出してなにやら書きつけている。雨風のノイズかと思いきや、イヤホンの音量を上げるとこれが夫の声で、訥々となにかを読み上げるようである。丸、点、と聞こえて、どうやら句読点をも読み上げるよう。その間、Tの万年筆は一定の速度で原稿用紙の上を滑っていき、夫の声が止むと、数拍遅れてTの手も止まる。口述筆記をしているとは、ようやくわたしも合点するところだったが、にしても、夫の姿が見えない。灯りは机上のLEDだけらしく、部屋の隅々を漆黒が巣食っている。画角を広げると、Tの左後方、画面でいえば右隅に、就寝時間が異なるからと夫が書斎に運び込み、かれこれ十年来夫婦同衾を阻止しつづける折りたたみベッドが見え出して、画面端に切られて台形状に映し出されたそれの上、かろうじてスタンドの灯りの届く域に、ロールに巻かれた敷布団が投げ出されたようにしてあるのが目に留まった。そこへズームすると、ロールの中心から、ひょっこり首から上が飛び出して、見間違えようもなく夫のそれ。夫、敷布団で簀巻きにされた。

なにも起こらぬ画面をわずか一分眺めるのさえ途方もなく長く感じられるところ、三分、五分、と経過してなお、Tは万年筆を構えたままぴくりとも動かず、夫のほうも沈黙したきり。機械のフリーズを疑うも、RECは赤く点灯したままだし、画面右上に表示されたカウンターは相変わらず目まぐるしく時の経過を刻む。十分を過ぎたあたりでTは深々と溜息をつき、万年筆をキャップにねじ込むと、原稿用紙の天地と平行になるようそろえて置いてからやおら立ち上がった。こちらに背を向けるなり、Tは室を出ていった。なにをか察した夫が訴えるようで、音量を最大にすると、それはか細く「ごめんよぉ……ごめんよぉ……」とうめいている。しばらくしてTが書斎に戻る。我が家を訪れた際に身につけていたシャツやらジャケットやらがきちんとたたまれて胸の前に捧げられている。彼女が素通りすると、夫のうめきも一段と大きくなる。たたんだものを机上に置くと、簀巻きの夫とカメラのあいだに立ちはだかって、おもむろにスウェットの上下を脱ぎ出した。若くて弾けんばかりの裸体があらわになる。脱いだものは拾ってベッドに放ってから、今度は机上にたたまれたものの一番上を掠め取り、それはどうやら下着で、ふたたび簀巻きの前を遮ると、片足を上げてそれに通す。わたしはわたしで、彼女の背中に留まる二枚の肩甲骨の、深い影を引き連れて上へ下へと舞う奇態な蝶を、呆然として眺める。それから臀の丸み。夫にいわせればわたしのそれはナスで、あちらはプチトマト、いかにも小さくて引き締まって見える。それが足の動きに乗じてかすかに閉じたり開いたりする。これまた面妖な生き物じみる。一つひとつ丁寧に着衣してすっかり身仕舞いを整えると、ぴっと背筋を伸ばし、脇目も振らず室を出ていった。

スマホのバッテリーが切れそうになる。一旦電源を切る。小型テレビの置かれた棚まわりを漁って充電器を探すうち、老母目覚める。このタイミングで老母を車椅子に乗せ、風呂場へ。服を脱がせる。オムツを捨てる。機械式ベンチに座らせると、シャワーで湯を浴びせてから、軀体の隅々をスポンジで撫でるようにして洗う。ひと通り洗い終えると、ベンチに両膝立てて横たえて、「入浴」のボタンを押す。ベンチはあらかじめ湯を張っておいた湯船の上へゆっくりと移動し、真上にくるとこれまた気の遠くなるような時間をかけて湯のなかへ降りていく。老母の肉体を目の当たりにしながら、先ほどスマホの画面越しに見たTの裸体が思われる。湯が胸元を浸す。この一連の見守りには、葬儀の最終行程の光景がいつだって連想される。そのときは、ぬるま湯ではなく、灼熱の業火。

軀体を拭き、オムツを穿かせ、新しい寝巻きに着替えさせてふたたび病室の四人部屋へ。床(とこ)に入れれば、ことばを交わす間もなく老母は眠りに落ちる。汚れ物を持って部屋を出る。洗濯機を回す。乾燥機を回す。待つあいだは読書が習いだが、いっこうに内容が頭に入ってこない。部屋に戻ったのが九時過ぎ。矢も盾もたまらずスマホを起動する。

カメラ③の画面が立ち上がる。部屋の中央に置かれた椅子の上に夫が立って、天井に両手をしきりに這わせている。ゾッとするのは、先刻Tの身につけていたわたしの部屋着を夫がパツパツになって着込んでいることで。隠しカメラに気づいて探すものと見える。しばらく様子をうかがうと、手を這わせては拳で天井板を都度叩いていく。で、胸ポケットから鉛筆だかペンだかを取って、印をつける。椅子を移動させては、繰り返す。今度手に取ったのはコードレスの電動ドリルと思しきもので、天井に突きつけるなり爆音が立って、思わずわたしはイヤホンを引き剥がす。どうやら天井板を探ってその上に梁の渡るのを確かめてから、穴を開けていくよう。カメラに気づかれたのではなかったと安堵するのも束の間、なにが始まるともう目が離せない。面会の刻限が迫る。つづいて鉛筆ほどの太さの長いネジを足元から拾って、これを穴へねじ込んでいく。二回、三回、と回したきり動かなくなると、ネジのこちらの端が輪っかになっているようで、そこへ同じネジを差し込んでハンドルにしてさらに回していく。これをおそらくは同じ梁渡しに三箇所繰り返してから、登山用の紐を一本いっぽん通して垂らす。折りたたみベッドを梁と平行になるよう移動させると、ベッドの上に敷布団をロール状に丸め、それへロープの端を一重二重と巻いていく。先端をロールの上に結び終え、しばらくは矯めつ眇めつしつつロープの固定具合を調べたり、敷布団の形や結び目の位置を整えたりする。布団の巻き具合を微調整するふうだった夫は、突如前屈みの姿勢からロールの真中へ頭から突っ込んで、身をくねらせて反対側へ首から先を突き出した感じは、もはや衝動を抑えきれずほとんど忘我の境地にある人の恍惚のそれ。今度はコメツキバッタよろしく全身を跳ね上げて、自ら簀巻きになった男の軀体はついにベッドの縁から転げ落ち、その刹那、敷布団に巻かれた紐の輪がその重みで一気に締め上げられて、そこで漏れる夫の、この世のものとも思えぬうめき声。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?