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応答セヨ #4/6


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 仕事納めの午後、外回りに出た折に電車の窓外に給水塔を見かけたこと。そこから物思いは少年時代に飛んで、なにか思い出せそうで思い出せなかったこと。そのなにかが、最近彼を見舞うようになった眩暈と少なからず関係しているらしいこと。そしてそれにともなう昨夜の夢見のこと。そうしたことを妻に打ち明けた上で、田安は年明け早々、郷里に出かけてこようと思う、といった。そうすれば、なにかが打開するかもしれない。
 郷里とは秘密基地のあった土地のことで、彼の現在の住まいからは、電車とバスを乗り継いで一時間とかからない。叔母にも長らく不義理をしているし、といい添えたのは、彼の生まれ育ったその家に、現在父親の妹夫婦が住まうからだった。元々が中古の物件で、一家が引っ越した後、妹夫婦が残りのローンを引き継ぐ形で移り住んだとは田安は聞いていた。田安が都下に居を構えたとき、いつでも遊びにおいでと叔母は伝えてきていた。そして今日の今日まで、うかがわずじまいだった。もとより彼の両親は親戚づきあいの疎い人たちで、田安もおのずとそういう感覚に染まっていた。
 叔母夫婦に子どもはいなかった。その家に、一泊二泊はすることになるかもしれない、とも田安は付け加えた。妻にあらぬ疑いをかけられてはたまらないと思っての問わず語りの口実だったが、その思い詰めた様子から、さすがに妻は疑念を挟むことはしなかった。連絡だけはしてくださいねと、これは、釘を刺すというより、夫の心身を慮ってのことだっただろう。

 叔母にそちらに年始の挨拶にうかがいたい旨伝えると、どういう風の吹き回しで、などと問い返すこともなく、素直に喜んでくれた。叔母は話好きの、無邪気で明るい人だった。まもなく七十に届く年齢のはずだが、経験と能力を買われて、いまだに現役の看護師として忙しくしているようだった。なにが食べたい、叔母さん腕によりをかけるよ、というので、ほんと、おかまいなく、と田安はいった。叔母もその夫も田安にとって気のおけない人たちであるには違いないが、夫婦に子どもがいないという意識が、どうしても情の濃密に絡むのを避ける傾向を、これはもう昔からではあるが彼に与えたもので、つい本心とは裏腹につれなくしてしまう。では年明けの四日から世話になりますといって、田安は電話を切った。

 その後の日々は、田安は泥のように眠った。起きては酩酊し、酩酊しては微睡んだ。テレビも観ない。大晦日から元旦にかけて、節目らしい節目の演出もせずに過ぎた。御節を作るなり頼むなりするのも来年はやめようと妻とは申し合わせていて、年越しに蕎麦を食うなんてこともしなかった。年賀状もこの頃ではどこも割愛傾向にあって、返事をしたためるのにさして時間は奪われない。二日に妻子を連れて徒歩で近所の八幡様までお詣りに行き、それが済むとどこにも立ち寄らずに帰宅した。

 四日の夕方に叔母の家に赴くと、案の定、山海の御馳走が待ち構えていて、食い切れないほどのもてなしを受けた。テレビの部屋で叔母の夫としばらくは盃を差しつ差されつしながら問われるまま近況を語り、どうもいくら寝ても寝足りないようでと、先に風呂を頂戴してから二階のかつての彼の部屋に引っこんだ。家具からなにから刷新されて久しいようだが、間取りには覚えがあって、寝床に入って常夜灯の薄明かりのなかで見る天井板の模様に、田安はたちまち少年時代にタイムスリップするような感覚を得た。
 眠りに落ちかかる前に、家の電話が鳴るのが聞こえた。おのずと耳を澄ます姿勢になっていて、すると、戸を外からそっと叩く音が聞かれた。
「はい」
「ごめんなさい。起きてた」
「大丈夫。どうしました」
「今ね、あなた宛てに電話がかかってるんだけど」
「誰から。妻からですか」
 そういえば妻に連絡するのを忘れていたと、田安は思い当たった。
「ううん、鍬原って方。あなたの幼馴染だっておっしゃるんだけど。どうしよう、明日折り返すと伝えようか」
「いえ、出ます」
 そういって田安は寝床を起き出して、部屋の戸を開いた。

 二階の壁に設置された電話の子機を取って耳に当てる。叔母が階段を下り切るのを待ってから、田安は通話ボタンを押した。
「もしもし。田安です」
「おお、ヤスか。お久しぶり。鍬原です。覚えてます?」
「スミス、ですよね」
「そう、スミスだよ。覚えてくれてたんだ。嬉しいなぁ。懐かしいなぁ。無事生きててくれたんだって感じだよ」
「ここに電話するの、初めてなんだよね」
 先刻の叔母のことばを田安は思い出していた。
「初めても初めて。俺もじつは長いあいだ実家を離れててさ。これまで帰省する暇なんてなかったんだけど、今度の年末年始は珍しく時間が取れてさ。家族を連れての親孝行だよねぇ。なんか久しぶりにここに滞在しててさ、妙にヤスのことが思い出されてね。引っ越したの知ってるから、ダメ元で電話してみたらいたからびっくりよ」
「おー、これはこれは、ご家族がおありで。それにしても奇遇だね。僕も最近スミスの夢を見てね。それで里心ついたっていうか、だからここにいるようなもので。今日の夕方に着いたから、ほんと、ピンポイントだよね。こういうの、虫の知らせっていうのかな」
「相思相愛ってやつだな。今少し時間大丈夫?」
「寝るところだったんで、全然」
「で、どんな夢?」
「え?」
「ヤスが見たっていう、俺の夢」
「ああ、それ。ほら、僕らの秘密基地があったでしょ。近くの公営団地の給水塔の真下に」
「マーズ・タワーな」
「それそれ。そのマーズ・タワーの横に貯水槽の置かれた建物があったでしょ。そこに君と侵入する夢でさ」
「あったあった、じっさいそんなこと。俺が鍵を開けてな、貯水槽を見つけてな、そこで泳ごうってなってな。今から思うと、とんでもない犯罪だよね」
「うん、まったくね。でね、その夢にはアクアもジーノもシンシンも出てこないわけ」
「うわっ、スゲー懐かしい名前出てきた。アクアにジーノにシンシンか。いたいた」
「今思い出した?」
「いやぁ、仲間がいたのは覚えてるけど、あだ名までは」
「そうなんだ。仲間、何人だったか覚えてる?」
「えっと、今の三人と俺らの合わせて五人だろ」
「そう、五人。そのはずなんだけど、夢にもう一人出てくるんだよ」
「誰?」
「ウサギ」
「ウサギ?」
「あれ、ピンと来ないの? 夢に全然見覚えのない子どもが出てきてさ。夢では貯水槽部屋への侵入は、君と僕とその子の三人でなされるんだけど、君がその子どもの名を明かすんだ。ウサギって」
「誰だろう。記憶にないな」
「本当に?」
「ほんとほんと。てか、俺の記憶では、あそこに入ったことがあるのはお前と俺の二人だけのはず」
「まさか」
「だって、それ、夢だろ?」
「夢なんだけど、僕のなかで、なんていうか、封印されている記憶があって、それをなぞっている感じなんだな。ウサギは実在したと、僕の第六感がそう語りかけるんだ。実在するとすれば、あの団地の住人の子だ。これはほぼ間違いない」
「なんで、そう言い切れる」
「君がさ、ウサギの家の鍵を持ってたんだよ。それで二人でそいつの家に侵入したことが、たしかあったはずなんだ」
「それも、夢?」
「いや、これはそんなことがじっさいにあったように思う、朧げな記憶なんだ」
「そんな事実はないな。俺はそんな泥棒の真似事なんかしない」
「家に侵入するとさ、薄暗い部屋の真んなかに、大きなケージが置かれていて、なかに人影があった」
「マジか。誰よ、それ。その、例のウサギってやつなの?」
「いや、それはわからない。仮にウサギだとすると、辻褄が合わない」
「辻褄?」
「いやね、結局これは夢のことだからさ、辻褄もなにもないんだけど、夢ではウサギは消えてしまうんだ。君が蓋を開いた貯水槽に飛びこんで、溺れたかなにかして戻って来なかった。で、君が助けに潜ってね。でもウサギはどこにも見当たらなくて、その代わり、ウサギが落としたと思われる鍵を君が拾って戻ってくるんだ」
「いや、もう、それこそ夢物語っていうか、創作も創作。結局俺だけが水に浸かって、それをお前が上から見ていて、やめろやめろうるさいから、五分もしないで上がったというのが事の真相ですよ」
「ウサギの実在はともかく、あの給水塔で子どもが死んだんじゃなかったっけ」
「まさか。俺がこの土地を離れたのが高校卒業後だから、少なくともお前が越した後、十年近いあいだに、そんな事故や事件があったなんて聞かないね。あればご近所のこと、耳に入らないはずはない」
「そうなのか。ウサギは死んでないのか……」
「おい。ヤス」
「なに」
「お前、大丈夫か? 家族はいるのか? ちゃんと働いているのか?」
「もちろん。家族もいる。子どもは三人。仕事もね、年の瀬まで忙しく働いた。目も回る忙しさなんていうけど、この頃では実際に目が回り始めてね。メニエール病と診断されたよ」
「病んでるな。心もカラダも」
「そうかな」
「明日の夜、ちょっと時間作れないかな。直接会って話をしようや」
 そういって鍬原は駅前のさるチェーンの居酒屋の場所を教え、時間を指定した。
 階下から叔母の声がして、「誰と話してるの」と聞いてくるので、幼馴染の鍬原からの電話だと告げたのは自分じゃないかと訝りながら、子機に向かって応えようとすると、電話はすでに切れていた。

 翌朝出がけに、夜は誰と話していたのかと、叔母は再び田安に聞いてきた。人のプライバシーに首を突っこむような人ではなかったから、この不意の詮索に、おや、とはなった。誰からの電話かはほかならぬあなたが伝えたのじゃないかと気色ばみそうになって、田安は身のうちにわかに兆した憤怒の気配にみずから戸惑った。叔母がとぼけるならとぼけるでいいにしても、ケータイで、といったのは聞き捨てならなかった。ケータイじゃない、あなたが渡した子機でしょうよと、吐き捨てるようにいうと、田安の顔を正面から見た叔母は、途端にはっと息を呑むような顔になって押し黙った。
「あんまり、うそだ、うそだって、あなたが怒鳴り散らすものだから、お父さんも心配になって」
 叔母は詫びるようにしていった。怒鳴ってなんかいないし、そんなこともいってないと、田安は苦笑するほかなかった。

 これからどこへ、と叔母が玄関先で尋ねた。
「近くの団地の、ほら、白い給水塔があったでしょう。あれが年末から無性に見たくなってね」
 先刻の憤怒の気配は跡形もなく消えて、田安は自分でも驚くほど柔和な気持ちになっていた。
「あそこは、少年時代の僕らの遊び場だったんです。遊び場というか、秘密基地。そこに行けばなにかを思い出す気がして」
 すると框に立った叔母は、玄関の甥をひしと両腕で抱き寄せた。
「かわいそうに、かわいそうに。……あんなことがあって、あなたは四十年が経とうとする今でも壊れたままなのね。……本当に、本当に、お兄さんは非道いことをした!」

つづく

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