応答セヨ #5/6
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叔母夫婦の家から例の給水塔のある公営団地までは、歩いて二、三十分の道行である。とりわけ昭和四十年代をピークに建てられた団地には給水塔が付き物で、これによって特異な景観が形成されるわけだが、マーズ・タワーのような最上部に盃と円柱を載せるいわゆる円盤型は関東独自のスタイルで、西ではほとんど見られないという。団地が改築されれば、給水塔は取り壊されてまず再建されることはない。日進月歩の技術はもはや配水に高低差を必要とせず、別腹の建物はメンテナンスも別腹だから、給水塔は今や無用の長物なのだった。
十年一昔というが、三十年以上ともなれば、町の風景もガラリと変わる。田安の家のような瓦屋根の木造二階家など絶滅危惧種で、そこらじゅうに似たり寄ったりの軽薄な建売住宅が軒を接し、よくもまあ戸を間違わずに帰還できるものだと呆れるくらいなもの。住宅が増えたということは、彼には馴染みの生産緑地がほとんど姿を消したことを意味した。
昨夜は駅から家の最寄りまでバスで来たため、町の変貌ぶりは田安には意識されなかった。しかしこうして日の下に改めて町を眺めてみると、いっかな既視感を得ない。こんな道が、と思わず目を剥くような幅広の真新しい舗装路が田安の行手を遮る。道路の両側には少年時には想像だにしなかったファミレスだのホームセンターだの薬局だのの大型店舗が果てもなく連なり、法定速度を無視した車が南北を貫く四車線をひっきりなしに行き交った。昔そこになにがあったかなど、見当もつかない。
道を間違えてやしないかと疑い、やがてその疑いは団地も給水塔も取り壊されて久しいのではという不安に取って代わられる。しかし募る不安をよそに、やがて家々の屋根の上に給水塔が見えだした。近づくにつれ、子どもたちの歓声が切れ切れに聞こえてくる。それを頼りに脇道をジグザグに取ると、大通りから一区画挟んだ奥に、給水塔とそれを擁する団地の六棟がようやく現れた。
往時のままといえばそうでも、その違和感たるや、全体をクリーム色に塗装し直されたからばかりともいえなかった。
まず、団地と通りひとつ挟んである広場に覚えがなかった。先刻の歓声は、ここで遊んでいる子どもたちのもの。小学校の校庭の半分はありそうな広い敷地で、全面ウレタンで舗装され、四方を高い金網が覆った。田安の子どもの頃は集団でする遊びといえばゴムボールにプラスチックバットの野球がもっぱらだったが、今そこで興じられるのはバスケかサッカーのようである。女の子も混じってボールを追っている。休暇の明けない家もまだ多いはずで、親の姿が目についた。
団地のぐるりを囲繞する建売住宅が、さながら役目を終えた老朽母艦を曳航するタグボードの群れのようにしてある。そのせいか、目の前に少年時代の面影を見るというより、博物館の展示物を鑑賞するよそよそしさではあった。
給水塔を囲う鉄柵を見上げながら、よくもこんなものを自分らは越えて侵入したものだと田安は感心する。柵の格子のあいだに額を押し当て、「宝物」を埋めた場所の見当をつける。さすがに今の自分にこの柵を越えるのはきついだろうとは思いつつ、手袋した両手で縦格子をつかんで両脚を前後に開き、腰を後ろへ引いてタイミングを見計らうというようなシミュレーションをするうち、えいやっと、これは自分でも思いがけず地を蹴ったもので、するとほとんど反射的に両足の裏面が反り上がり、縦格子の細い面をとらえた。田安は猿のように尻を突き出して柵に取りついたまま、進退きわまった。少年の頃ならこの先どうするかは頭よりカラダが瞬時に判断したものだろうが、なにごとにつけ理屈と経験則で推し量ろうとする間合いを持つのが老いの悲しさというもので、手を離せば後頭部や背中から地面に落ちること請け合い、格子を蹴って足を浮かせ、すかさず膝を伸ばせば足が地をとらえて無事、との公算が立って、いざしてみると想像以上に田安は低い位置に取りついていたもので、両膝を地面にしたたかに打ちつけた。
田安は羽織った黒のダウンジャケットを脱いだ。セーターも脱いでヒートテックの長袖ばかりになり、屈伸したりアキレス腱を伸ばしたりなど軽い準備運動をしてから再び格子を両手につかんだ。今度はもっと高いところをつかみ、腕の力だけで両足を引き上げる。先刻と同じ猿の姿勢を取り、今度は片手を離して上へずらし、もう片方の手をそろえてから、両足を心なしか浮かせて両腕でまた引き上げる。これを繰り返すことで遅々とながら上へ上へと進む算段だが、何回目かで呼吸が乱れて足裏が格子の面をとらえ損ね、格子と格子のあいだの空隙を片足が向こうへ蹴りだす按配となり、格子に内股を激しく打って悶絶しかかって、腕が痺れて全体重を支えきれず、そのまま背中から落下した。
芝地に仰向けになって快晴の空を眺めながら、俺はなにをしている、と田安は自嘲した。背中を打って、呼吸が苦しい。ここはどこ、私は誰、とつぶやいている。時間をかけて呼吸を整え、内奥の嵐のようなものが去るのを待ちながら、来る、との予感があって、同時に空が反時計回りに回り始めた。田安は目を閉じた。
呼吸が落ち着いても嵐は去らなかった。田安はほとんどムキになっていた。目を開いてやおら起き上がると、また柵に取りついた。性懲りもなく猿の姿勢になり、腕の力だけでのぼろうとする。こだわったのは、反射や体力の衰えを認め難かったからなのか、かすかに見出された可能性を捨て難かったからなのか。そうすることで、あるいは当面の眩暈を封じられるものと信じたからかも知れない。
「さっきから、あんたぁ、なにしてるのぉ」
正面から嗄れた声が不意に届いて、田安は我に返った。男とも女ともつかない茶色く着膨れた老人が団地側の柵の向こう、椿の植えこみ越しに見えて、これが田安を見据えていた。睨む、と端的にいえないのは、老人の目が黄色っぽく濁って黒目と白目の境界が曖昧だったからで。目の縁が赤く隈取られて見えるのは、それが常態なのか、怒りに血走っているからなのか、これもわからない。しかし声には明らかな怒気が含まれている。
「さっきから、なにしてんだって、いってんだよぉ」
見ると、着膨れ老人は彼(ないしは彼女)ばかりか、三、四と柵に取りついている。どころか、団地の方々の出入口から、判でついたように似通った格好の老人らがわらわらと吐き出されてきた。団地の窓という窓にも顔があった。
「なにやってんだよぉ、立入禁止の札が見えねぇのかよぉ」
「警察呼ぶぞぉ」
「おまえ、泥棒なのかぁ」
「帰れ、帰れぇ」
「帰れ、帰れぇ」
「帰れ、帰れぇ」
いいながら、老人たちは手にした杖や石かなにかで、いっせいに鉄柵をカンカンと打ち始めた。田安はたまらず尻餅をついた。咄嗟に逃げようとして、眩暈のせいで植えこみの躑躅に突進する。背後で笑い声が立ったように思う。往来に躍り出るなり急ブレーキの音が空気を引き裂き、「危ねぇじゃねぇか! 馬鹿野郎!」と怒声を浴びせられるが、完全に平衡感覚を失った田安に、なにがどこにどう配置されてあるものか、皆目わからない。そのまま地面に俯してしまえばラクだっただろうが、縁もゆかりも希薄になった土地で衆目集めて救急車なんぞ呼ばれた日にはコトだぞと、そればかりは明晰で、文字通りの這々の体でなんとか路地から路地を通り抜け、最後は誰も見ていないところで鼻面をしたたかなにかに打ちつけて、その場にあられもなく倒れこんだ。
叔母夫婦の家に戻ったのが昼過ぎで、昼餐時に卓を挟んで田安と向かい合った夫婦は、なにかいいかかっては思いとどまるというようなことを二、三度繰り返した。中年男の顔にできた生傷など見るに耐えないとは、いかにも想像するに余りある。田安のしたいい訳を、叔母夫婦が易々と信じるはずもなかった。しかし田安は時折二人に笑顔で応えながら平然として飯を食らい、ごちそうさまをいって二階に上がった。ベッドに横になるなり、田安は溶けるようにして眠りに落ちた。
薄暮に目覚めて、田安は階段を下りた。出支度といってはダウンジャケットを羽織るくらいのもので、すでに朝から予告してある鍬原との飲みのことを叔母にいい、だから夕飯は要りませんと、これまた朝に確認したことを田安は繰り返した。叔母の不安げな顔を、田安は見て見ぬふりをした。出しなに叔母が一万円札をくれようとするのへ、そんなもの受け取れる歳ではありませんよ、と田安は苦笑いした。
約束の時間を三十分過ぎても鍬原は指定の場所に現れなかった。その時刻に鍬原の名で予約の入っているのを、来店時に田安は店員に告げられていたから、待ち合わせの場所も時間も間違いはない。スマホの通話履歴を辿ってそれらしい電話番号が見当たらず、それもそのはず、あれは子機だったとおのれの迂闊さを田安は笑う。叔母がまたヘンなことをいうから。ケータイじゃない、俺はあんたが渡したその子機で話してたじゃないか。叔母に連絡して家の電話に残る着信履歴を調べてもらえば解決する話だが、叔母のあの妙な反応にまた接するのかと思うと田安は怯んだ。
鍬原が時間を勘違いしているということはないか。ありそうもないことだが、とりあえず一時間待ち、さらに三十分待って、さすがに田安は痺れを切らした。叔母夫婦のところへ桑原から電話があったのなら、叔母から折り返し田安へ連絡があるはずだ。それもないとなると、失礼極まりないじゃないか。憤然として席を立ちかけたところへ、横合いから名前を呼ばれた。振り向くと、こちらはテーブル席で、向こうは一段上がった座敷席、三つの赤い顔がこちらを向いてまじまじとうかがった。
「田安? ひょっとして、ヤスじゃね?」
ほとんど同時に田安も判別していた。
「うわっ、アクアにジーノにシンシン? マジか。てことは、スミスもいる?」
「え?」
「いや、みんないっしょなら、そういってくれればいいのに」
「いうもなにも、ヤスが帰ってきてるなんて誰も知らないし。なぁ、そうだろ」
アクアがいって、ジーノとシンシンが深々と頷いている。顔も肉付きもすっかりオジサンでも、少年時代の面影が透けて見える。それはもう、無惨といいたいくらいに。
「そうそう。てか、これなに? 奇遇ってやつなの? なんでヤスがここにいるわけ?」
ジーノがおどけ調子にいう。性格まで少年時そのままのようである。翻って、おのれの年の取り甲斐のなさを、田安は思わされるのでもある。
「飲む約束があって」
「え? 誰と?」
「まあまあ、ヤスよ、立ち話もなんだから、こっちに合流して、な。すんませーん」
そういってシンシンが店員を呼び、田安の卓上の飲みさし食いさしを座敷に運ばせた。
「いや、しかし、久しぶりだな。何年になる」
アクアが新たに運ばれた熱燗の徳利を田安の前に置かれた盃に傾けようとする。両手で盃を捧げ、ありがたく頂戴する。ひと息に飲み干せば、空きっ腹に痛いように染み渡る。
「おや、いける口なのね。こりゃいいや。おねえさん、もう二つつけて」
「三十年。いや、四十年か」
「四十年! そりゃ、お互い年を取るわけだよ。いつ帰ったのよ」
「昨日の夜。叔母の家に厄介になってる」
「叔母さんとこって、ヤスが前住んでた家か」
「そう」
「なに、どういう風の吹き回し? この町にまた戻ってくるとか?」
ジーノがこれまた新たに運ばれてくる肴を田安の前に差し出しながら訊いた。
「いや、ちょっと里心がついてね」
「里心がつく? そんな表現、人の口から初めて聞いたな。さすがは秀才」
「秀才なんかじゃない」
田安は憮然としていった。
「仕事はなにしてんの」
シンシンが品定めするような目を作って訊いてくる。
「やめてよ。なにその顔は。しがないサラリーマンですよ。サラリーマン。それも営業。猫撫で声出して、思ってもいないおべんちゃらいって、頭下げてね。数字に追われて毎日が地獄ですよ」
用意したセリフのように澱みなくことばが出て、田安は我ながら驚いた。久しぶりに会う旧友にするような話でないことくらい、さすがに頭ではわかっている。しかし相手がほとんど出来上がった酔漢であるのが幸いして、深刻めいた空気にはならなかった。
「そりゃ大変で。生きると書いて、大変と読むんだからな。俺は市議会議員様の雑用係に甘んじているよ」
「いやいや、アクアは政治家の秘書さんですよ。そろそろ出馬も間近いってね。そうなったら、センセイって呼ばなきゃな」
「こちとら公務員の倅で、自分で自分の道を切り開かなきゃなんないの。どっかの誰かさんたちみたいに、オヤジの跡を継げばそれで事足りるのとはワケが違う」
「おことばだねぇ。二世の苦しみもまたわかるまいってやつだ。店舗経営なんてのは、いまや風前の灯なんで。こないだ店を丸ごと買いたいような話があって、聞くだけ聞いてみたら、ざっと見積もって三百万だってドヤ顔しやがる。馬鹿にしくさって」
「いや、ジーノ。引退するにはまだ早い。ネットの活用も軌道に乗ったばかりなんだし、焦ることはないよ」
「いっぽうの八百屋はうまいことやってやがる。毎夕人が溢れかえってるってな」
「あれはカミさんのおかげ」
「知ってるさ、そんなこと。シンシンのカミさん、やり手なんだ」
「口が達者でな。上沼恵美子も顔負けのな。それにカミさんの販路の開拓がまたエグい。あれもネットの達人だね。今や市場を介する時代じゃないさね」
「俺らは、なんつーの、アンコウの夫婦ってやつだよ」
「なんだよ、それ」
「ほら、アンコウってグロい魚がいるだろ。あれはみんなメスなんだ。オスは柳の葉っぱみたいな情けねぇなりしてて、これがメスの腹に食らいついてその血を吸って生き延びてやがんのよ」
「で、隙を見て種付けすると」
「おまえ、種付けすらままならねぇじゃねぇか」
「いうね!」
お客さん、ちょっと、お静かに、と若い店員に嗜められて、すんませんと三人して舌を出しながら平身低頭する。
「ところでさ、こんなところで、まさかの一人飲み? さみしいじゃないの」
ジーノにいわれていきさつを説明する。三人の顔がみるみるこわばって、互いを見交わしてから、いやいやいやいや、ないないないない、それはないわーと口をそろえた。
「おまえ、ほんとに、知らんのか」
「でもさ、あれはヤスが引っ越した後だから、ヤスが知らないのも無理ないよ」
「いや、ヤスが越す前だろう。夏休みだったもの。ヤスが越したのは九月だ」
「九月だったっけ? ヤス、おまえ、いつ越したんだっけ?」
問われてこれと正確な時期をいえない自分がもどかしい。なぜか額からさーっと冷たくなって、同時に汗の噴きだすのを田安は感じていた。暑いのだか寒いのだかわからない。
「覚えがないとなると、やはりヤスが越した後なのか」
「どうしたの。なにかあったの」
田安は訊いていた。それに答えるのはおまえの役目だといわんばかりにジーノとシンシンの視線がアクアに注がれる。アクアの目が泳いで、たちまち重たげな空気があたりに立ちこめる。
「……それ、スミスであるはずがないんだよ」
アクアが口を開いた。
「ヤスが越した同じ夏、スミスは行方不明になったんだ。いまだに見つかってない、はず」
「いや、わからんよ。スミスの一家もあの年にどこかへ越しただろう。その越した先で再会を果たしているかもわからないじゃない」
「いやジーノ、それはないよ。もしそうなら、遅かれ早かれ誰かの耳に入っているだろうよ」
「行方不明? 死んだのではなく?」
「いや、それはわからない。たとえ事故だったにせよ、死体が上がったなんて話もついぞ聞かない。あの当時は変質者による誘拐の線を大人たちは疑っていて、以来俺たちは大人が誰か必ずひとりは付き添っての集団登下校を強いられるようになったし、外遊びもままならなくなった。暗雲立ちこめる少年時代ですよ」
「ウサギは?」
田安は訊いていた。ほとんど反射的に。
「え?」
「いや、なんでもない」
「……だからさ、この店であなたがスミスと待ち合わせてたなんて、ちょっと笑えない冗談なんですよ」
「いや、でも昨夜本人から電話があってさ。ちょうど自分も帰省してるから会わないかってなって……」
「うーん、わかった。そいうことをするのは……シンシンだ」
「なんで俺なのよ」
「おまえ、この、手のこんだマネしやがって。全然笑えないんだよ」
「いやいや、俺はなにもしてないから」
「サプライズとかなんとか、洒落た演出したつもりなんじゃないの」
「いやいや、そんな訳のわからんことするかよ。そんなことするなんて、頭おかしいでしょう」
「俺らじゃないとすれば、ここにいない誰かのイタズラか。まぁ、変な奴はきょうびそこらじゅうにいる。ヤスの久しぶりのご帰還を目撃した奴がいて、挨拶がわりに驚かしたのかもわからない。あるいは」
「あるいは?」
「鍬原の霊のお導きかも」
「気味のわるいこというなよ」
ジーノの声が震えを帯びている。
「それはともかく、カンパーイ!」
アクアの音頭に四人はそろって頭上に盃を掲げた。
しかしそれにしても頭のなかが渋滞する、訊きたいことが山ほどあるぞ、とアクアが身を乗りだして、田安の顔を覗きこんだ。
「ここへ戻ったほんとうの目的は?」
「秘密基地。マーズ・タワーを見に」
「マーズ・タワー? おお、なんとまた、懐かしいタームが飛び出しました!」
それからは田安への質問攻めは一旦中断され、「宝物」をみんなで埋めたはずだ、おまえなに埋めた、俺はガンプラ、俺はキンケシ、俺はエロ本の切り抜き……と大はしゃぎで、田安はそれを尻目に中座した。
にわかに嘔気を催したもので、トイレに立った。便器に屈んでしばらく待つものの、吐瀉するほどではなかった。世界は、あるいは自身はやや渦巻くようで、それの治まるまでしばらく田安は便座に腰かけて、頭を抱えて待った。
どのくらいそうしていたものか、個室の戸を叩かれて、田安は立ち上がった。外にいたのは見知らぬ客。座敷に戻ると、テーブルはほとんど片付けられていて、座布団の上に田安のダウンジャケットばかりが丸めて置かれてあった。
「あの、ここにいた人たちは」
店員をつかまえて尋ねると、ああ、と合点した顔になり、
「駅前の『歌のコロシアム』で待ってると、言伝を預かってます」
と田安に教えた。
「あの、会計は」
「あ、全部いただきました」
「私の分も?」
「はい」
店を出しなに、例の店員が、あの、と田安の背に呼びかけた。
「なんか、素敵ですね、幼馴染って。わたしもいつか、年を取ってから、あんなふうに懐かしがって、子どもみたいにはしゃげたらなぁって」
自分の娘といっても違和感のない若さだろう。このくらいの若さの娘は、我知らず言動に媚態を含むものである。ちょっと声をかけられたくらいでのぼせるような手合いでは田安はもとよりないはずだが、店を出て冷たい夜気にほてった顔をそよがれてみると、今ここで引き返して店の扉をガラガラと開ければ、一面荒野が広がって、月もないような夜闇を背に、その柔肌に燐光を放つ全裸の娘がおもむろに面を上げて手招くかもしれない、そう思われて、ついぞない欲情のほむらがぞわりと下腹の奥を舐めた。午前に負った鼻先と額の傷が、にわかに疼き始めていた。
カラオケ屋とは反対の方向へ、田安は歩きだした。
つづく
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