見出し画像

応答セヨ #3/6


3

 秘密基地は給水塔の真下にあった。給水塔の足元を鉄柵が厳重に囲っていた。鉄柵の上部は槍の先のように尖っていて、それが等間隔に並んで、しかもすべてが外側に反り返っていた。柵内にあるのは給水塔のほか、同じ矩形、同じ大きさの、隣接する二棟の窓なしの平屋で、各々が太いパイプで繋がれて、おそらくは片方が貯水槽、もう片方がポンプやモーターの設置された機械室だった。柵内のぐるりを椿の低木が囲って、季節によらず常緑樹の葉叢が外からの視界を遮るので、給水塔の根方は秘密基地としてのこれ以上ない格好の条件を満たしていた。

 じっさいのところ、それが給水塔であるとは、ほとんどの子どもたちが知らなかった。その用途を公にできないなんらかの理由があって、おそらくは戦争に関係しているとは、多くの子どもがした理解の筋道だった。近所にはプロテスタント系の大学があり、構内には職員用の戸建の密集する一画があって、町なかで金髪碧眼の家族連れを目にすることも珍しくなかった。その敷地内には甲虫類の豊富に集う棕櫚や櫟が何本か植わっていて、そのことは界隈の子どもたちには公然の秘密だった。夏休みになると、夜も明けない時間にゾロゾロとキャンパスに侵入して虫捕りをするというのが、当時の子どもの最上のスリルと冒険だった。というのも、いうまでもなくそれは不法侵入という立派な犯罪を構成したからで、侵入については仲間の年長者たちがそれなりに入念な計画を立てて臨んだ。当時子どもたちから「ハッピーババァ」と呼ばれて恐れられた白人の老婆がいて、これがいつなんどき子どもらが侵入しようと、どこからともなくママチャリを駆って現れて、ベルを鳴らしながら異国の言葉で警告を発して猛追してくる。あれに捕まってアメリカに連行された子どももいるとかで、朝靄から現れ出るだぶだぶの碧衣に赤リボンの銀髪老婆を見ることは、子どもたちには呼吸もままならないほどの恐怖だった。この神出鬼没のハッピーババァがそれでも現れないタイミングがわずかにあるらしく、それを割り出すのが年長者たちのもっぱらの役目だった。

 大学のその広大な敷地が、かつて「隼」や「火龍」、後には「零戦」のライセンス製造も行った東洋一の飛行機工場だったとは誰もが知るところで、そんな事情も子どもたちの想像力を遠からず先の戦争に結びつけたものだろう。その土地は半ばアメリカに占領されたという深層心理が働いていて、それで給水塔は、子どもたちの目にはアメリカ側の、もしくはアメリカが日本に作らせた秘密の建造物と映った。当時の子どもたちと終戦までの距離感は、現在から地下鉄サリン事件や神戸児童連続殺傷事件までの距離感とさして変わらぬことを思えば、当時のアメリカの幻影の濃密さもそれなりに理解されようというものである。ちなみに仲間内でその給水塔は、マーズ・タワー(火星の塔)と呼ばれたはずだった。もちろん、太陽の塔のもじりで。

 その鉄柵を難なく征服した仲間たちが、植えこみの椿に隠れるようにして芝生の上に大の字になり、晩夏の快晴の空を仰ぎ見た瞬間の背徳感と爽快感とを、田安は忘れ得ない。その後で誰が言いだしたものか、仲間たちはマーズ・タワーのぐるりに取りついて、その壁に耳を押し当てた。五人の子どもたちが手と手を繋いでぐるりを囲っても、なお余る支柱の太さだっただろう。しばらく耳を澄ましていると、やがてその奥から規則正しい音が届いた。


ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……


 それは宇宙からの謎めいた信号にほかならなかった。子どもらは胸を高鳴らせて、それに応えた。


ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……《コチラ地球》……ゴウンゴウン……《応答セヨ》……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……《応答セヨ》……ゴウンゴウン……ゴウンゴウン……


 田安たちは銘々「宝物」を家から持ち寄って、マーズ・タワーを擁する秘密基地のさる片隅に、固い絆の証しとして埋めたはずだった。仲間は五人だった。姓名はともかく、あだ名なら田安は今でも難なくいえる。鍵屋の倅の鍬原が locksmith を縮めてスミス、公吏の倅の吾桑(あそう)が別の読み方をもじってアクア、工務店の親方の倅の梶野がジーノ、八百屋の倅の森がシンシン、そしてサラリーマンの倅としかほかにいいようのなかった田安がヤスで、これで五人。田安一家は小五の夏明けに父親の仕事の都合でその土地を離れたから、彼らとの付き合いは小学生の頃の数年に限られる。地元の幼馴染として彼らが現在も交流を続けていてなんら不思議もないが、その後の彼らの消息を田安は知らなかったし、おそらくは彼らにしたところで、田安の現在を知るはずもなかった。父親は東北の一都市に安住の地を見つけ、実家へ帰るとなればそこへ赴くことを意味したが、田安にとっての故郷はあくまで秘密基地のあった土地であり、それへの郷愁は拭い切れるものではなかった。大学進学を機に東京へ出てきた田安は、現在一家を都下の外れに構え、秘密基地のあった故郷は、家と職場を直線で結んだちょうどその中央に位置した。

「開いた!」
 スミスがこちらを振り向いて、ニカっと笑った。彼のポケットにはゼムクリップがいくつも入っており、いざという時にはこれを伸ばし、先を丸めて鍵穴に挿し入れると、ガチャガチャとやること数秒、スミスに開けられない錠はなかった。鉄扉にかかっていたのは南京錠で、これを開けるのはスミスには朝飯前だった。
 鉄扉はしかし、マーズ・タワーのそれではなく、タワーに隣接した例のコンクリート剥き出しの窓なし平屋のどちらかの出入口で、それが薄く外側に開くと、スミスはなかへ滑りこんだ。それに続こうとして田安は一瞬怯んだ。さすがに錠前破りをして建物に侵入するのは、子供のいたずらで済む一線を超えているという考えが脳裏をよぎったからである。しかし後続の誰かが田安の背中を無言で押したもので、彼はなかへ入らざるを得なかった。建物のなかに一歩踏みこむなり、黴の匂いとサウナのような蒸し暑さとに急襲され、田安は咽せこんだ。
「なにモタついてんの。ヤス、おまえ、まさか怖気づいたか」
 闇の奥からスミスが声をひそめてからかってきて、背後でそれに追従する笑いが立った。
「あった」
 これまたスミスの声がして、パチリと音の立ったのと同時に建物の天井各所に設置された照明が点灯し(おそらく水銀灯と呼ばれるものだっただろう)、田安たちは眼前に、室内の容積のほとんどを占める黄色い樹脂製の筐体を見た。筐体の脇に梯子がついていて、その上に上がれるようになっていたが、天井との隙間は屈んでようやく入れるような狭さである。スミスは躊躇いもなく梯子をつかんでのぼり始めた。
 またもや田安は背中を押されて、スミスに続いた。スミスが腹ばいになって、ガチャガチャやっている。「よし」といって起き直って天井の梁にしたたか頭を打ったもので、鈍い音が室内に響き渡った。背後で声を押し殺して笑う者があったが、田安はどうしても冒険の味に没頭することができなかった。こんな密閉空間にみんなでいては、すぐにも酸素が切れるとか、あらぬ想像をしていかにも怖気づいていた。スミスがなにやら蓋状のものを横にスライドすると、水面のゆらめきを映す光の模様が天井に広がった。
 スミスがなかへ腕を伸ばすと、水を掻き回す音が立った。
「これなら、泳げる」
 スミスがそういってさっそく服を脱ぎかかったものだから、なんの水だか知れやしない、といって田安は制した。
「汚水かも知れないし」
「汚水ってなんだよ。下水ならこんなところに貯めやしないぜ」
「雨水とか」
「雨水なら、平気でしょ。禿げるなんていうなよな」
 田安は勉強の出来るほうなので、仲間内で彼の発言がおろそかにされないことは彼自身自覚していた。水のなかに入らずに済む口実をあれこれ小さな脳中でこねくり回していると、さっきから彼の真後ろに取りついていた誰かが彼を乱暴に押しやって、いつのまに半裸になったものか四つん這いに突き進んで頭から槽のなかへ飛びこんだ。それにしても今見た子どもの背つきに覚えがなく、アクア、ジーノ、シンシン、今の誰だよと振り返るとそこには誰もおらず、あるのは分厚い無音の闇ばかり。にわかにゾッとしてスミスに声をかけようとすると、「おかしいな。上がってこない」と独り言しながら縁に半身を乗りだして、そのまま吸い込まれるように消えた。
「スミス! 危ないよ! 早く、上がってきて!」
 縁に取りつくのもままならず、その場であらん限りの声で叫ぶが、しんと静まり返って応答はない。じっと耳を澄ますが、照明だか室内のどこかの機械だかからするかすかな唸り音ばかり増幅するようで、水面の乱れる音はいつまでも聞こえなかった。

 どのくらいの時間が経っただろう。尋常ならざる長さの沈黙についに耐えかねた田安は、汗びっしょりになりながらジリジリと匍匐前進したもので、ようやく口の縁に手がかかると、今一度スミスの名を、今度はあだ名と本名を交互に叫んだ。応答はない。恐怖で嘔気がこみ上げ、全身がガクガクと震えた。たいへんなことが起きてしまった、取り返しのつかないことが起きてしまった……。自分もまた水のなかへ飛び込むなど思いも寄らず、助けを呼びに行かなくてはとようやく思いついて、来た道を足から後退していくと、ついに水面の破れる音が聞かれて、激しく息を吸いこむ音が同時に立った。
「スミス! スミスなの!」
「手を……貸して。ここから……手が……届かない」
 匍匐前進で縁まで戻ると、田安は恐るおそる手を差し伸べた。
「……もっと……もっと……前へ!」
 田安は目を瞑って身を乗りだした。右の肩から先を投げ出すと、それをすかさずつかまれて、なかへ引き摺りこまれた。
「やめろ!」
 田安は叫んだ。目は、開けない。
「手を、放せ!」
 腕の縛めが解放されると同時に樹脂の上に大きなものが転がる音が騒々しく立って、ようやくここで目を開けると、傍らに濡れ鼠のスミスが仰向けになって胸を大きく上下させていた。
「これを」
 そういって、片手に握りしめたなにかを田安に差しだした。
「ウサギはどこにもいない。でも、多分これは、アイツの家の鍵だよ。底で見つけた」
 ウサギ? ウサギって誰? さっきの子どものこと? あいつは誰なの。あいつは秘密基地を共有している仲間じゃないよね。ねえ、スミス。さっきの子ども、あれは誰なの?

 年末年始の長い休暇の始まりの夜からこの夢見では、とても持たないと田安は寝覚めの床から天井を見上げて苦笑する。夜明け前の薄闇のなかで、動悸の収まるのをひたすら待っている。待つあいだ、段々と世界の、あるいは自分の回転する予感を、自身の内奥に探っていた。
 夢のお告げなるものを田安は信じない。例えば異性が「あなたの夢を見た」といえば、彼においては愛なり恋なりの告白に過ぎなかった。日常が不安なら不安な夢を見るし、期待に満ちているなら明るい夢を見る。それが道理というものだと田安は疑わない。しかし不惑も半ばを過ぎて、封印された記憶の蓋が夢によって開きかかるということはある、と田安はほとんど確信するのでもあった。あるいは、現在の記憶が偽記憶であるのを夢によって暴露されることも含めて。

 マーズ・タワーで、子どもが少なくとも一人死んでいる。
 団地の住人たちが水が臭うと訴えて、それで塔のてっぺんに据えられた水槽が調べられ、子どもの腐乱死体が見つかった。そういうことだったはずだ。子どもは給水塔の内部の螺旋階段(眩暈にともなって田安が幻視する螺旋は、塔の内部を下から見上げた光景にほかならなかっただろう)を上って頂上まで来て、なんらかの手段を用いて水槽のハッチを開き、なかへ侵入したと信じられただろう。しかしさっきの夢見が知らせる消息は、そうした憶測とは異なる。子どもが侵入したのは地上の貯水槽であって、その内壁のどこかに開いた排水口に吸いこまれ、そのままパイプを伝って塔の頂上まで吸い上げられたのである。

 そんなことが建物の構造上あり得るとはとても思えない。頭で否定しながら、狭いパイプのなかをゆっくりと浮上していく子どもの死体が浮かんで田安は嘔気を得た。いや、昨夜の忘年会の酒がまだ残っているのだろう。田安は目を瞑った。故意に眠ろうとしたのはほかでもない、夢想の飛躍が禁域に触れかかったからだった。
 しかしもはや夢想の飛躍は止めようもなかった。俺があの土地を離れたのはほかでもない、子どもの腐乱死体と自分は関係があったからだ。俺はあの事故なり事件なりの、いわば重要参考人だった。それの公になる前に、おそらくは両親が息子を守るため、夏休みの明けやらぬうちに家族であの土地から奔走した。そうであれば、なにもかも辻褄が合う。

 スミスの背中が仄かに見えていた。先刻の夢の残像ではなく、それは遠い記憶の残滓。貯水槽のある窓なし平屋へ侵入した一日とはまた別の一日の絵である。公団住宅の何階だかの部屋の扉にスミスが鍵を挿しこむと、それはわけもなく開いた。饐えたような匂いがたちまち鼻面を打って、思わず二人して口元を手のひらで覆う。窓という窓に遮光カーテンが引かれていて、部屋のなかは暗かった。玄関口から向こうは乱雑を極め、とりわけ弁当の空箱が散乱して足の踏み場もなかった。スミスも彼も土足で上がりこんでいた。こんな、泥棒みたいなこと、と怯えにせっつかれていいかかると、スミスが手招きした。
 スミスが指差す先、暗がりに慣れた目に、大きなケージが部屋の中央にぼうっと浮かび上がった。そしてケージのなかに黒い影がうずくまっている。ウサギどころの大きさではない、それはやがて人の輪郭を表した。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?