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BGM conte vol.4 «空港日誌»

 沙彩からの電話。
 この子の電話はきまって平日の、中途半端な時間にかかってくる。たとえば午前十時とか午後の三時とか。で、便りがあるのは悪い報せで、あの子は屈託を解消するために電話をかけてくるのだ。
 これがかっきり三か月ごととなると、とても偶然とは思えない。あの子なりに遠慮があるのだ、と思えば情にほだされかかるけれど、こちとら暇ではないのだ。主婦をナメるな、といつか言ってしまうかもわからない。
「暇なの?」
「開口一番それはないでしょう。冷やかしなら、切るわよ」
「ごめんなさい。そんなつもりじゃない」
「ふつうはね、元気、とか、最近どう、とか、そんなふうに話を始めるものでしょう」
「わたし、そんな人じゃない。知らなかったの?」
「知ってるわよ」
「じゃあ、もう正論でいじめないでよ。暇なら、ちょっと時間ちょうだい」
「なによ、またどうしたのよ。あの大学の先生と、うまくいってるの?」
「別れた」
「……結婚するかもって言ってたじゃない。どうにかならないの」
「ならない」
「なんでよ。これでようやくあんたも落ち着くと思ったのに」
「あいつは今日の夕方、日本を発ちます」
「そうなの。学会かなにか」
「だから、車を出して。お願い。お見送りしたいから」
「ちょっと、なに気出してるのよ。わたし、あんたの運転手じゃないのよ。タクシーでもなんでも拾ってひとりで行けばいいじゃないの」
「ひとりは、無理」
「……バカね、あんたも」
「バカだよ。バカがこうして頼んでるんだ」
「頼み方をもっと勉強しなさいね」
「わたし、杏奴だからこんなふうに頼むんだよ。知らなかった?」
「知ってた」

 臨海公園の駐車場はガラ空きと言ってよかった。潮風が強くて、髪は乱れるしスカートは脚にまとわりついてくる。二人してきゃあきゃあ言いながら平日の昼下がりに無為の時間を過ごすとなると、たちまち学生のころの感覚がよみがえる。あれから十余年が経つというのに。
「何時の便なの」
 海側にある手すりを両手でつかんで、杏奴は大きく背を反らした。喉元を空に向ける。鼻腔に潮の香りが膨らんだ。
「あと一時間。JALよ」
 潮風に煽られながら、しばし飛行機の離発着を眺めていた。これはなかなかにいいものだ。沙彩は深刻に違いないけれど、杏奴は興奮を隠しきれなかった。平静を装いながら、今度子どもたちを連れてこようなどとと思っている。
 沙彩がおもむろにショルダーバッグを開けて、なにやら取り出した。
「なによ、それ」
「これ。拳銃」
 そう言って両手に握って構えると、はたして安っぽいテレビドラマの私服警官と見えなくもなかった。それもベテランの。
「冗談でしょ。なに、それ、おもちゃ」
「ふふん。おもちゃじゃないわ。本物よ」
 今どきネットでなんでも手に入るのよ、と嘯いて、ふたたび銃口を向けてきた。
「やめなよ。おもちゃでも、怖いじゃない」
「大丈夫。弾は入っていないんだから」
 それから沙彩は、お守りとしての銃の効用について、ひとくさり持論を述べた。たとえば、Suicaに一億円入っていると想像してみなさいよ。そのときの心の余裕よ。アメリカじゃあ、銃は、貧乏人にとっての大金みたいなものなんじゃないかしら。いつでもその気になれば誰彼を殺せる。自分をあの世に送ることだってできる。この感覚がね、生きて今あるという実感を、研ぎ澄ましていくんじゃないのか。見渡せばガゼルとかヌーばかりで、自分はライオンなの。その感覚が、自由の感覚とない交ぜになって、抜き難くあるんじゃないかしら。……
「あいかわらず、へんなこと、考えるんだね」

「あれかな」
「あれかも」
 そう言うと、どちらからともなく二人は手すりに沿って遊歩道を駆け出した。離陸しかかった飛行機の機体が西日を浴びて、茜色に染まった。
「あれだ、間違いない」
 沙彩は不意に立ち止まると、やおら拳銃を構えて、銃口を飛行機に向けた。
 飛行機は海を隔てて何キロも先にある。
「撃て!」
「撃て!」
 離陸する飛行機のエンジン音に紛れて、銃声が鳴った。運動会で嗅いだ懐かしい匂いが、あたりに立ち込めた。
「ちょっと、まさか、それ、本物じゃないよね」
 ふん、と鼻で笑ってから、沙彩は唇を尖らせて、銃口を吹いた。

「高いところに行きたい」
 帰りの車のなかで沙彩が言う。ひとたび駄々っ子のようになったら、際限がない、酔いつぶれるまでは。
「なによ、高いところって。フレンチとかイタリアンとか、豪遊したら気が晴れるん」
「違う。高いところとは、high placeのこと。高所に行きたい。高所から人々の営みを見下ろして、なずみたい。夜景が見下ろせたら、なおよろしい」
「だったら、高いところは高いところ、high place is high price.」
「なんだかあやしいわね、その英語」
「そんなことどうでも、わたしは主婦なんです。これ以上お義母さんに迷惑かけられないし、ダンナになんか言われてあんたの名前を出した日にゃあ、二度とそんなやつと会うなと言われること請け合い」
「つまらないね」
「つまらないけど、つまらないなりに、幸福ということもあるよ」
「わたしはね、君たちのように易々と青春に見切りをつけたりはしないのだ」
「いつかツケを払わされるときが来るんだよ」
「そのときは、そのとき」
 そう言って、沙彩はショルダーバッグにしまわれたものを、手のひらでポンとたたいてみせてから、晴れやかに笑った。

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