そうかもしれないし、そうでないかもしれないというほんの少しの余白の考え方

近しい人、大切な人、ならなおさら信じたい。

誰かが言っていた。

子どもを持つと、子どもを信じたい気持ちはあるけれど、もしケンカしてケガをさせてしまったのだとしたら、自分の子どもの発言だけ鵜呑みにはできないと。信頼していないわけではないけれど、客観的にみて、謝らなければいけないことだってあるかもしれないという視点でいるようにしていると。

それを聞いて思った

ハナから鵜呑みにして、100%「信じたい」を発動していると、見えなくなるものがあるかもしれないなーと。(個人的には「疑う」というのともニュアンスが違う気もするんですが)

それはどんなことに対しても。

自分の成功体験だって、今まではそれと同じようにやってきてそれなりに効果を実感してきたから続けていたことも、それだけがすべてと思い込んでいると、見えるものが狭まってるのかもしれないと!

必然的に新しい可能性や視点が入る隙を遠ざけているということですものね。

確かにギチギチに詰め込んで隙間がない状況は、どこかひずみや窮屈さがあるのかもしれない。

信頼しないことでもないけれど、他の可能性の隙間をほんの少しだけあけておくことって大切なのかなーなんて思った。

何かに「100%絶対」という権限を与えないでおくこと。

その考え方「だけ」では突破が難しい案件もあるかもしれないという余白を持っておくことと持っておかないことは結構な差かなーと。

どうにもならない現実がやってきてはじめて人は変わろうとできるし、違う視点で見ようとしてみたりできるので、それ自体は成長のプロセスとしていい流れだと思うけれど。今までもそうだったし。

けど、これからは強制終了であたふたする必要はないのかなって。あらかじめ余白を作っておくことで、ダメージが少なく、よりスムーズに柔軟に別のやり方に取りかかれるのかなって。

それしか見えなくなると、しがみつきたくなって、信頼度が足りないからかなーとか、ますます信じようとして悪循環になってしまうから。それをある程度緩和できる作用があるんじゃないかと思います。

そう考えると、私の成功体験が通用しない現実がやって来る時があるんだなー。というか、実はちらほら感じてたりもする最近です。なんか寂しいなーなんて思ったりもします。これまでたくさんお世話になってきた考え方だから。価値観だから。

すべて手放すわけではないし、その考え方も信頼しなくなったわけでもなく、まだまだこれからも大いにお世話になる予定なのだけど、いままで絶対王者で君臨していた考え方にほんの少しだけその座の広さを譲ってもらうときって、余白をあけるときって、なんというか「もうこの考え方は必要ない、古い、間違いです」という「どいて扱い」しているようで。「信頼度が下がってしまう」ようで。

でも、すべてまっさらに棄てる訳じゃなくて、それを金輪際信頼しないということでもなくて、これも立派な財産だから、必要な状況のときになったらその都度ひっぱり出してくるアイテムのひとつとして位置づけしておけばいい。

そして、これまでの信頼度もそのまま変えることなく余白を作れること、それが矛盾なくできることに気づいたのです。

たくさんのアイテムを持ち、固執することなく必要な時にどのアイテムを使用するかを選択できる知恵を身につけることが人生を豊かにするのかもしれませんね。

みなさんのそれぞれの道を応援しています😊