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Black Lives Matterをはじめとしたニュースから何を感じるか(前編)

こんにちは、フォレスト出版編集部の杉浦です。

アメリカ合衆国ミネソタ州でジョージ・フロイド氏が警官により殺害されたことを契機に、アメリカ国内だけでなく、世界中からBlack Lives Matterを叫ぶ声があがっています。このような痛ましい事件が起きた時はいつも、嘆いたり、立ち上がったり、静観したり、傍観したりと、人の数だけ多様な反応があります。ニューヨーク在住30年あまりの香咲弥須子さんは、著書『マンハッタン・ミラクル!』のなかで、ある銃乱射事件が発生した時、ご自身に去来した思いを記されています。2週にわけてご紹介します。

「わたしはアダム・ランザの母です」

 ニューヨークの隣、コネチカット州の小学校で乱射事件発生。2012年の12月のことです。ニューヨークは広範囲にわたって、まさかのハリケーン襲撃にあったばかりの時期でした。家を失い物資も不足したまま冬を迎える人たちが大勢いました。ホリディ・シーズンのイルミネーションは例年通りキラキラ、チラチラ、瞬いていました。
 児童二〇人、教師六人が死亡した近隣での惨事に、ニューヨーク中が凍りつき、そしてたちまち繫がり合いました。
 繫がり合う、という現象は、2001年9.11のテロ事件から、わたしたちが慣れ親しんできたものです。具体的には、街のあちこちに灯されるキャンドルや花束の数々であり、公園に集まっての祈りの輪、そしてまた、バスや地下鉄、路上やスーパーマーケットなどで通りすがりに交わす視線です。

 あなたがそこにいてくれるのでわたしも生きていられる。
 わたしと同様、悲しみと恐怖を抱えているのは知っているけれど、それでもそうしてそこにいてくれてありがとう。
 いつでも手を差し伸べさせてくださいね。

 物言わぬ視線を訳すなら、こんな感じでしょうか。
 湧き起こる悲痛が深ければ深いほど、わたしたちは、それに取って代わる愛と喜びの経験を求めるものなのだと、私はニューヨーカーから学びました。悲痛な事件から目をそむけて慰めを見いだそうとするのではなく、その悲痛さのただ中を直視しながら、そこに、何としてでも、喜びを見いだすという勇気を教えてもらいました。
 惨事の起きた小学校の、勇敢な教師たちは、わたしにとっての教師でもありました。ほとんどが非常に若い先生たちです。彼ら彼女らは、とっさに子どもたちを避難させ自らが銃弾の的となりました。あるいは、「子どもたちが最後に聞くものが銃声ではなく、愛の言葉であるように」と願い、I love you. と繰り返し子どもたちに囁き続けた先生もいました。惨事の中の勇気と無私の愛の行為は、恐怖で凍りついた心の奥から自然に流れ出る、誰もが持っているはずのものなので、その宝物を目の当たりにすると、わたしたちは力づけられ、安心感が心に広がるのです。
 喜ばしいことであれ、悲しいことであれ、何が起こっても、そこに顔を出す優しいエネルギーを見逃さないこと。そして、それは、「あなただからできるのよ」ではなく、誰の中にも、自分の中にもあるものだと受け取ること。そのように踏んばると、悲しみや衝撃を通して、自他の中に等しく、信頼に足る力を見つけられるような気がしています。
 あなたにはできるだろうけれどわたしには無理、と決めつける自意識から抜けると、あなたにできた、つまりわたしたちにはそれができる、と、捉えられるようになります。そしてそのように捉えるから、日々が嬉しいものになるのでしょう。
 ニュースにも、遠近法があるようです。ニュースの発生地が自分の身に近いほど、大きく反応するのが自然なことなのかもしれません。自国での惨事、自国民が巻き込まれた事件、ましてや知人、友人、血縁者、と自分に迫ってくるにつれ、影響はとてつもないものになり得ます。一方、遠く離れた人たちのことは、無関心になるか、事件全体の愚かさ、バカバカしさを眺めることになるのでしょう。
 この世の事件、事故、犯罪、災害、惨事、戦争、テロ、などのあらゆるものは、全体を眺めるなら、ただひたすら人の世の愚かさと滑稽さを映し出すだけのものです。例外なく、起こるべくして起こったものだからです。
 たとえば、アメリカで乱射事件が起こると、まず、銃規制の問題が騒がれます。また、処方箋薬の問題も再燃します。医者に処方された抗鬱薬、向精神薬が逆に作用して精神を錯乱させ、それが悲劇に繫がるケースが少なからずあるからです。事件の要因として挙げられるものは、もちろんそれだけではありません。宗教問題、精神病院の予算問題、親子カウンセリングの現場問題、学校の防衛問題、人種差別問題、ジェンダー問題……リストは延々と続きます。問題は山積みで、その山から現れるのが個々の事件です。
 また銃の乱射?言わんこっちゃない。アメリカは愚かしいなあ。
 対岸の火事と見る人なら、そう嘆くのではないでしょうか。
 火事が自分の岸に飛び火してくるのを恐れ、事件を直視する代わりに社会問題を攻撃するほうに向かうこともあるでしょう。
 そんな時、その人の心にあるのは、「どうやって自分(たち)を守るか」という思いです。その思いは「この世には、根絶しなければならない敵がいて、その敵がいる間は、何とかしてその敵を避け、自衛しなければならない」という、信念から生まれているはずです。
 それは、普段は気づかないふりをしていても、何か事件が起こるたびに意識にのぼります。日頃は見て見ぬふりをしているけれども、実は自分が、どれほど怖がりながら日々を送り、自分と自分に属する人たちを守らなければと戦々恐々となっていること、そして正直なところ、守りきれるわけがない、必ず守れるほど自分には力がないと認めていること、だから、自分を守ってくれる強い力が要るのに、親、学校、会社、政治、どれをとっても、不完全なものであるばかりでなく、それらこそ敵そのものということだってある、という暗く救いのない思いが心の底にへばりついていることに気づかされるのです。(続く)
 

これまでご紹介した『マンハッタン・ミラクル!』に関連する記事はこちらです。

(Photo by Ludovic Gauthier on Unsplash)

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