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「関谷、死んだらしいぞ」【話題の新刊/本文公開】

倒産寸前の水道屋を業界シェアNO1企業へと成長させ、空前のタピオカブームを仕掛け、スーツに見える作業着を開発、コロナ禍のアパレルにおいて前年比売上400%増を達成した「令和のヒットメーカー」。関谷有三氏の待望の初の著書『なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?』より、関谷さんが倒産寸前の栃木の水道会社を継承するまでをつづった第1章の一部を公開いたします。

また、本書は、巨額の債務を抱えた企業を立て直した自身の実話でテレビドラマ化もされたベストセラー『破天荒フェニックス』(幻冬舎)の著者、OWNDAYS(オンデーズ)グループCEO田中修治氏とのスペシャル対談動画や「ワークウェアスーツ」がお得になるクーポンを入手できるご案内、関谷氏が直接講演や研修を行う特典など、「令和のヒットメーカー」待望の初の著書はお値段以上の特典が満載です。特典については本記事の最後に記載する書籍の特設ページにてご確認ください。

第1章 はじまりは倒産寸前の水道屋

■優等生からの転落

 僕は1977年、昭和52年に生まれた。何があった年なんだろう、少し気になって調べてみた。
 テレビ放送の完全カラー化。王貞治さんが756号ホームランを放ち、世界記録樹立。キャンディーズの解散宣言。喜劇王チャップリンの死去。
そんなに昔だったんだ、僕の生まれた年は。ちょっと愕然とした。そりゃもうそんなに若くはないわけだ。現在の年齢は43歳。少し長生きする予定だから、人生の折り返し地点くらい。まあ若くもないが、悲観するほどまだ年寄りでもない。
 生まれは栃木県の県庁所在地である宇都宮市。ご存じ、ギョーザで有名なところ。お世辞抜きに本当に美味い。いくらでも食べられる魅惑のソウルフード。焼き立てが最高だ。今でも定期的にお取り寄せは欠かせない。
 実家は水道屋。市の中心地からは程遠い田舎にあった。祖父がはじめた家業で、父は2代目。新築住宅の下請けとして水道工事をしたり、水回りの修理をしたり。ありふれた街の小さな水道屋。蛇口と作業着は身近な存在だった。
 僕は、負けず嫌いな子どもだった。
通っていた幼稚園では、毎年冬に園の最大のイベントである縄跳び大会が開かれていた。全員でいっせいに縄跳びをはじめ、ひとり、またひとりと脱落していく。そして、最後まで跳んでいた子が優勝。まさにサバイバルレース。優勝の毎年の相場は2000回。幼稚園児にしてはかなりのものだ。でも、その大会で勝てば一躍ヒーローになれる。年長の時の大会だった。幼稚園最後の大会だ。僕は自分に誓った。絶対勝ってみせる。
 いーち、にー、さーん。しー……。
 いつも通りにはじまった。ひとり、またひとりと脱落していく。1000を超える頃には10人ぐらいになった。2000を超える頃には3人に。そして、僕は最後のひとりになった。優勝だ。そしてここから僕のひとり旅がはじまる。
 優勝者が失敗するまで跳び続ける。それが大会の決まりだった。全園児がそれを最後まで見守る。最高の盛り上がりのなか、3000を数えたところで、日が暮れてしまった。そして園長先生から「もう、おしまい」と言われ、タイムリミット。幼稚園中、割れんばかりの拍手喝采だ。その快挙は園はじまって以来のことだった。今でもあの日のことは鮮明に覚えている。僕は翌日からヒーローになった。
 小学校時代。自分で言うのはいやらしいが、すこぶる勉強ができた。テストはほとんど100点。
 95点など取ろうものなら、悔しくてテストを破り捨ててた。
 通知表は卒業するまでもちろんオール5だ。
 子どもの頃、ずっと政治家になろうと思っていた。当時の政治家は力があってなんだかカッコよく見えた。水道屋に生まれた僕が、どうやったら政治家になれるのか色々調べてみた。東大に入り、外務省に入って、外交官として活躍すれば道が開けるかもしれないと知った。小学3年の時の文集に、こう書いた。
「外交官になって代議士になる」
 そんなことを語る小学3年生に若い先生が驚いた。
「外交官って……」
「えっ、先生知らないの? 外務省のエリート官僚だよ。それが国会議員になる近道なんだよ」
 そんな生意気な小学生だった。
 地元の中学に入るのが嫌だった。田舎のダサいヤンキーがたくさんいるようなところには絶対に行きたくなかった。中学受験をして、倍率10倍を超える国立大学の附属中学に合格した。近所では騒ぎになるような快挙だった。
 中学時代、片道1時間自転車で通った。ひとりの才女にはかなわなかったが、定位置は学年2位。特にガリ勉キャラというわけでもなく、笑いもとれて、おしゃれにも敏感。彼女もできて、充実した優等生ライフだった。両親にとっても自慢の息子だった。
 そして、当然のように東大を目指して県下一の進学高校に入るのだが、ここから、漫画のようにドロップアウトをしていく。原因はその高校が男子校だったから。勉強ができたところで女子がいなけりゃ張り合いがない。思春期の男心は実に単純だ。
 かわいい他校の女子と付き合う方法を考えた。時は空前のコギャルブーム全盛。狙いはギャルが集まる商業高校だ。僕の通う高校はガリ勉のイメージで、親世代には好感度がすこぶるよいのだが、ギャルにはとにかくウケが悪い。ギャルにモテるのはイケてる不良だ。まずはイメチェンが必要だ。
 左耳に穴をあけてピアスをした。そして、ロン毛にする。まだ生え揃わないけど、髭も伸ばしはじめた。日焼けサロンにも通った。
(見た目はまずまずかな。次は、不良のチームに入るぞ)
 学校の近くの図書館の横に大きな公園があった。街の不良たちはそこにたまって、うだうだするのを日課にしていた。ある日、図書館から公園の様子を眺めていたら、顔馴染みの同級生が不良たちにからまれていた。
 チャンス、到来だ。
 公園に駆け付け、同級生に声をかけた。
「どうしたんだ?」
 不良たちが、僕を睨みつける。
「お前はどこの学校だよ?」
 高校名を告げる。県下一の超進学校の名だ。
「ガリ勉のくそだせぇ学校の奴かよ」
「仲間に入れてほしいんだ」
「はっ、ふざけてんじゃねえぞ」
「僕は不良になりたいんだ」
「お前、頭のおかしい奴だなぁ」
 そうこうして、僕は晴れて不良グループの一員となる。そのグループは、単なる不良というだけでなく、おしゃれでカッコいい。雑誌なんかにも度々登場していた。ギャルたちにも当然モテる。そのなかで、僕はメキメキと頭角を現しはじめる。武闘派だったわけではなく、頭脳派のポジションで活躍した。
 他のグループとの対決における作戦。女性のナンパの仕方。知恵を使っての駆け引きの方法を、メンバーたちに伝授していく。いつしかグループの主要な幹部としてのし上がり、僕の名前も次第に広まっていく。
 一方で親は泣いていた。
 でも、当時まだ幼かった僕は、優等生よりも不良で名が売れたほうが何百倍も誇らしかった。勉強はもちろんしない。不良的には、むしろしないことがカッコいいのだ。
東大を目指すことを美徳とする高校で、僕はもちろん超問題児となる。学校の教師たちからは、口を揃えてこう言われた。
「学校に来なくていいから、皆の邪魔だけはしないでくれ」
東大から外交官、そして政治家へ。そんな野望は、とっくの昔に忘れていた。
 不良仲間たちと、こんなことを話して盛り上がっていた。
「将来は海辺でレゲエバーをやろうぜ。昼はサーフィンしてさ」
 栃木県に海はない。海は僕らの憧れだった。

■関谷、死んだらしいぞ

 卒業後は家を出て、とにかく東京に行きたかった。それには大学に行くのが手っ取り早い。現役受験は当然のように全滅。浪人して響きがおしゃれな大学に、なんとかギリギリ補欠合格ですべり込んだ。そして、僕は晴れて東京の大学生となった。
 大学生になったらイベントサークルに入りたいと決めていた。浪人時代、色々な雑誌でバッチリと予習は済んでいた。東京のイケてるおしゃれな大学生が集まるところ、それがイベントサークルだった。
 しかし入学した大学には、まだイベントサークルがなかった。テニスサークルに用はない。泣けるほどがっかりした。僕以外にもがっかりしている奴は、きっとたくさんいるはずだ。仕方がないので、自分でつくることにした。
 入学して3日目、早速行動を開始する。
 まず、大学のキャンパスを回り、悪そうな奴を探す。地元でブイブイ言わせていたような奴がいい。「一緒にイベントサークルつくろうぜ」と声をかけて10人ほど仲間を集めて幹部になってもらった。
 次に、「新入生のサークル意識調査」というアンケートをつくり、何枚もコピーする。そして、幹部メンバーたちと一緒にキャンパスにいる女の子に次々と声をかける。
「君、新入生だよね。今、アンケートをしてるんだけど協力してくれないかな」
「どんなサークルに入りたい? 興味があるイベントは花見? スノボ? バーベキュー? クラブ?」
 どんな回答をしたところで、君が入るべきは僕たちのイベントサークルだよ、という結論に行きつく仕組みだ。
 こうして、かわいい新入生の女の子を30人ぐらい集めた。でも、僕たちにコンパを開く資金はまだない。さあ、どうしよう。そこで、作戦を立てる。活躍してもらったのは女性陣たち。
 色々なサークルが新歓コンパを開いている。目当てはかわいい女の子。そこに、特にルックスがいい女性メンバー5人ほどを送り込む。そして、そのサークルの代表に切り出す。
「あのー、わたしたちの参加費は……」
「もちろん新入生は特別にタダだよ」
「じゃあ、友達呼んでもいいですか」
「かわいい君たちの友達なら大歓迎さ」
 僕たちは、コンパ会場の近くに待機している。「来ていいって」という連絡を受けて、皆でゾロゾロと押しかける。困惑する上級生のサークル幹部たちを無視して、場の中央で僕が立ち上がり大声で、
「かんぱーい」
 皆も、それにつられて「かんぱーい」。
 こうして数々の新歓コンパ荒らしをしていった。その度に新たなメンバーを獲得していった。どんどんサークルは拡大していく。
 僕たちのサークルは、あっという間に大学でもっとも有名な存在となる。その後は、大学生活を目一杯楽しんだ。人より少し長く在学したのはご愛嬌。今でもその当時の幹部連中とは親友だ。そうして、就活の時期を迎えた。僕は就職をせず、そのままイベント屋にでもなろうかなとぼんやり考えていた。
 ところが、僕は、一番進みたくない道を進むこととなる。それは、栃木に帰って家業の水道屋を継ぐこと。
 大学生活も残すところあと数か月、卒業がギリギリ決まりほっとひと安心していた頃、久しぶりに父から連絡があった。
「体調が悪いんだ。栃木に帰ってこい。仕事を手伝ってほしい」
 水道屋だけはどうしても継ぎたくはなかった。田舎の小さな、そして地味な会社。東京で派手な日々を過ごしてきた身としては、絶対避けたい進路だった。
 けれど、僕は思い返してみた。両親の自慢だった優等生から不良になり、親をさんざん泣かせてきた。浪人して学費の高い私立大学に行かせてもらい、またもやろくに勉強もせず、それどころか遊び過ぎて留年もした。ずっと親のスネをかじりまくって迷惑をかけ倒してきた。
 散々悩んだが、少しでも罪滅ぼしをしようと栃木に戻ることにした。
大学の仲間たちは皆驚いた。いや、一番驚いたのは僕だった。なぜって、入社後にわかったのだが、実家の水道屋は倒産寸前だった。社員は5人ほど。皆親子以上に歳の離れた職人で、唯一の営業担当は、父だった。体調を崩した父の代わりに、僕が営業をすることになった。
 東京でブイブイ言わせていた俺だ、なんとでもなるだろ。
 甘かった。まったく仕事がとれない。今考えるとそりゃそうだ。水道の知識はまったくないし、技術もない。営業も自己流ででたらめ。そんな奴が、勢いだけで仕事くれって言ったって、無理に決まっている。でも、それを注意したり、アドバイスしてくれる人もいなかった。
自分なりには頑張るのだけれど空回り、頑張れば頑張るほど、心が追い込まれていく。東京で就職した友人たちからは、景気のいい話ばかりが聞こえてくる。
 やれきれいなOLと合コンした、やれ海外出張したなどと。
 ボロボロで自信のかけらもないみじめな時に、そんな話は聞きたくなかった。
 華やかなサークルの代表だった見栄やプライドもあった。彼らからの電話をいつしか着信拒否にしていた。友人たちは、噂し合った。
「関谷、死んだらしいぞ」

※本稿は『なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?』(関谷有三 著)より抜粋したものです

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(編集部 杉浦)

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